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YURIホールディングスPresents プレイヤーズヒストリー 畑潤基編

チームのために戦える選手だ。そのポジションがフォワードでも、サイドハーフでも、ハードワークすることを厭わず、攻守に託されたタスクをまっとうする献身性が頼もしい。それでも一番求めているものだけは変わることがない。なぜなら、それを手にするためにずっとサッカーを続けてきているのだから。

「自分はフォワードの選手たちといつもゴールに向かうことを話している一方で、今まで秋田にいる選手は、その前段階として守備のことを話すことが多くて、それももちろん大事なんです。大事なんですけど、フォワードとして仕事をしなくてはいけないのはゴール前ですし、秋田のそういう部分を自分のプレーで変えていきたいなとは、ここ最近凄く思っているんですよね」

フォワードであることに人一倍自覚的な、ブラウブリッツの必殺仕事人。畑潤基がピッチの上で誰よりも貪欲に目指すのは、いつだってみんなに笑顔を連れてくるゴール一択だ。

畑 潤基(はた じゅんき)
1994年8月14日、愛知県出身。
2023年にブラウブリッツ秋田に加入。
ポジションはフォワード。
https://twitter.com/junki_hata32
https://www.instagram.com/jun.v.v0814/

小学生の頃に初めて入ったチームは、愛知県名古屋市に居を置く大森フットボールクラブ。4年生まではサイドハーフを務めていたが、身長の大きかった畑は5年生になるとセンターバックを任されるようになる。「相手との競り合いに勝つのが楽しかったんですよね。全然嫌々やっていたわけではなかったです」。気の置けない仲間と一緒に、とにかくサッカーをすること自体が楽しかったのだ。

6年生に進級するタイミングで、まだ創設されたばかりだったNagoya S.S.というチームへ加入すると、今度はボランチへとコンバートされる。そのチームはジュニアユース年代のカテゴリーも有していたため、最初から中学の3年間もそこでプレーするビジョンを持っての“移籍”だった。

今のポジションでもあるフォワードで起用され始めたのは、中学生になってから。すぐに上級生に混じって試合にも出ていたものの、市選抜のセレクションには落ちるぐらいのレベルだったという。さらに3年生の春に足首の骨折に見舞われると、結果的に完全復活まで1年近い時間を要してしまう。サッカーができない時期は学習塾へと通う日々を過ごし、そのまま地元の公立高校を受験しようとしていたが、そんな畑に意外なオファーが届く。

「自分ともう1人のチームメイトが声を掛けられました。たぶんもう1人の方がメインで、僕はそのついでみたいな感じだったんですけど、その時の東海学園は創部したばかりなのに愛知県で三冠を獲ったりしていて、勢いのある高校だったのでなおさらビックリしましたし、嬉しい反面、『そんなチームでやっていけるのかな?』という気持ちはありました」。結果的に“もう1人のチームメイト”は別の高校に進学し、畑だけが東海学園高校の門を叩くことになる。

待ち受けていたレベルは想像以上だった。「推薦組は世代別代表やナショナルトレセンに入っていたような人ばかりで、そこでまずちょっとビビって(笑)、僕は案の定2軍スタートだったんですけど、基本的に常にチームの中でも上手いと言われてきていたので、1年生で1軍に行っているヤツがいるのに、自分が行けないというのがメチャメチャ悔しかったです」

悔しさは上昇するためのエネルギーに変わる。夏前に開催されたインターハイ予選。最初はメンバー外だったが、突然ベンチ入りのメンバーに抜擢されると、畑は県内最大のライバル・中京大中京高校と対峙した試合でゴールを挙げてみせる。

「何も考えずに、『ゴール前で自分にできることだけに集中しよう』とやっていたら、本当に結果が出てしまって。そのゴールで自分の中ではかなり自信が出てきて、そのまま全国大会でもスタメンで出られるようになったんです」

迎えた全国大会の初戦。先制点を記録したのは、9番を背負ってスタメン出場していた1年生ストライカーだった。「実はあれがチームとしても全国大会での初ゴールだったんですよ。『マジで持ってるな』って」と当時を回想する畑は、3回戦まで勝ち上がったチームとともに一躍注目を集めることになる。

冬の全国出場を懸けた選手権予選決勝。相手は中京大中京。この試合でも畑は先制ゴールを叩き出す。ところが、残念ながらその日の主役は彼ではなかった。「自分で言うのもなんですけど、結構なスーパーミドルを決めたんです(笑)。その時点では勝ったと思ったんですけど、宮市亮選手(現・横浜F・マリノス)に2点決められて、逆転負けでした。『ああ、こういう人がアーセナルに行くんだ。これが本物なんだ』ということを見せ付けられましたね」

既に卒業後はイングランドの名門クラブ・アーセナルへの入団が内定していた、いわゆる超高校級ストライカーの宮市亮が、東海学園の前に立ちはだかる。「メチャメチャ悔しかったですけど、宮市選手が本当に凄過ぎて、『マジでああなりてえ!』と思ってしまいました(笑)」。のちの日本代表選手は、やはりスーパーだった。
 
高校の3年間を振り返ると、全国大会出場は1年生のインターハイのみ。チームとしての力は間違いなくあったが、望んだ結果は付いてこなかった。とりわけ3年時の選手権予選は優勝候補筆頭の呼び声もあった中で、ベスト8敗退。「全国大会も見なかったですね。情報を耳にもしたくなくて、それぐらい『何でなんだ?』って本当に落ち込みました」。もちろんプロになりたい気持ちはあったが、そこに現実味はなかったかもしれない。

大学も最初から“内部進学”を希望していたわけではなかった。「セレクションを受けた明治大と阪南大で迷っていたんですけど、その頃に恥骨を疲労骨折していたので、大学に行ってもどのくらい休むことになるのかわからなかったですし、それなら今のドクターのところでちゃんと治した方が良いんじゃないかと、大学の監督と高校の監督に相談した上で、そのまま東海学園大に上がろうと決めました」。入学後もケガの影響は続き、1年時はほとんどプレーできなかったそうだ。

自身でもターニングポイントに挙げるのは、2年時のインカレ。スタメンのほとんどがのちのJリーガーで構成されていた流通経済大との一戦に、延長戦の末に敗れたものの、トップレベルで戦う選手との実力差を見せ付けられた畑は、大きなショックを受ける。

「すべてを打ち砕かれた試合でした。納得の行くプレーが全くできなくて、ずっと自分にイライラしていましたね。でも、関東の大学との差を思い知って、よりシュート練習を細かくやるようになりましたし、本当に基礎の基礎から身体を作り直すところ、技術ももう1回イチからやり直すところ、シュートまで行く流れを作ることを必死にやりました」

もう1つの重要な出来事は、大学ラストイヤーの4年生になる直前に起きる。「春に大阪の堺に遠征に行った時に、阪南大との練習試合で0-13ぐらいで負けたんです。その後で名古屋に戻ってきて、今度は流経大とやって0-8ぐらいで負けて、『これはマジでヤバい』と。それまでは逆境になっても『頑張ろう。練習して取り返そう』って思えたんですけど、あの瞬間は『オレには無理なのかな』という想いが頭の中に出てきてしまって……。でも、やっぱりサッカー選手になる夢はそんなに簡単に諦められるものではなかったんですよね」

不安を伴って臨んだ東海学生リーグの開幕戦。畑はなんと1試合で8つのゴールを積み重ねる。「何が変わったのかはわからないですけど、本当にあの開幕戦からです。何か吹っ切れて、何か自信が付いて、何か当たり前のように点が獲れるようになりました」。このシーズンのリーグ戦では、最終的に31得点という凄まじい数字を残すことになる。

因縁は巡る。夏の総理大臣杯。東海学園大が初戦で対峙したのは、阪南大だった。「みんなが『メチャクチャいいタイミングだな』って思っていました。『春にやられたから、またやられるんじゃないか』なんて言うヤツは誰もいなくて、『もうやり返すしかないでしょ』という感じで、みんな練習から燃えていて、良い状態で試合に臨めました」

前半21分。畑がミドルレンジから左足を振り抜くと、ボールは凄まじいスピードでゴールへと突き刺さった。「アレは完璧でした。たぶん大学で一番ぐらいに印象に残っています。嬉しすぎてヤバかったです」。エースの強烈な一撃で先制したチームは、春先に衝撃的な敗戦を突き付けられた相手に対し、3-0で快勝してしまう。

2回戦は強豪の明治大に再び畑のゴールでリードしながら、後半アディショナルタイムに同点弾を浴び、最後はPK戦での敗退を突き付けられたが、ここでは“現在のチームメイト”との邂逅もあった。「明治の同点弾を決めたのは丹羽詩温なんですよ。今でもチョイチョイその話になりますね(笑)」。そんな2人が同じタイミングで秋田へ集うのだから、未来はわからないものだ。

ケガにも悩まされ、悔しい経験も数多く味わった大学の4年間は、それでも絶対に必要な時間だった。「挫折を味わったり、自信を付けたり、そういうことがあったおかげで今の自分があると思っていますし、要所要所で悔しい想いを持ったことで自分は成長してきたので、本当に大事な4年間でした」。東海学園大への進学は間違っていなかった。

Jリーグデビューへの入口は、唐突に開かれる。「大学4年の9月に、長崎へ3日間練習参加に行くことになって、2日目の練習が終わった時に、高木さん(高木琢也監督)と強化部長だった竹村(栄哉)さんに呼ばれて、『特別指定にしようと思うんだけど』と言われたんです。ビックリはしましたけど、即答で『お願いします』と言って、それで特別指定選手になりました」

特別指定選手としての登録が発表された9日後。J2第32節。北海道コンサドーレ札幌戦の87分に、V・ファーレン長崎のユニフォームを纏った畑はピッチへと走り出す。「相手にも同時に交代出場する選手がいたんですけど、それが小野伸二選手だったんです。それでメッチャ緊張しました(笑)。たぶんアディショナルタイムを合わせて5分ぐらいだったんですけど、その中でも自分の持ち味を出せて、割とできるなという感触はありましたね」

それから14日後。J2第34節。徳島ヴォルティス戦の84分に、畑は豪快なシュートでJリーグ初ゴールを記録する。「今でもJリーグの中で一番のゴールだと思っています。マジで頭が真っ白になって、何が何だかわからなくなっちゃって、『決めちゃった……』って」。正式なオファーが届いたのは12月だったが、断る理由はなかった。ルーキーに用意された背番号は11番。畑は長崎の地でプロサッカー選手としてのキャリアを歩み出した。

「自分から逃げていったんです……」。その決断を思い出す畑の表情が曇る。プロ1年目の8月。畑はJ3のアスルクラロ沼津へと期限付きで移籍する。「最初の方は『短い時間でも点を獲れ』と高木さんに途中出場のチャンスをもらって、そこで結果が出せなくて、出場機会が減っていきました。そこから居残り練習も高木さんとマンツーマンでやったり、全体練習でも自分が厳しいことを言われていく中で、別にチームから『移籍してくれ』と言われたわけではないのに、結果的にはそこから逃げたんです」

「その時はたぶん『試合に使ってもらえるチームがあるから、そっちに行く』みたいに、自分の都合の良いように言っていました。今から振り返ると『情けねえな』と思いますし、その次の年の長崎はJ1で戦っていたわけで、高木さんはチャンスをくれる人なので、『もしもう1回チャンスをもらった時に結果を出せば、そのままJ1で試合に出られていたかもしれない』ということを考えると、『逃げたのは間違いだったのかな』という後悔はありますね」

夏に移籍してから、シーズンが終了するまでの5か月。当時沼津を率いていた吉田謙監督は、畑を1試合もリーグ戦で起用しなかった。「『何で出られないんだ』とその時は思っていましたけど、フォワードとしてゴール前でパワーを使えず、とりあえず走っているような感覚になったりしていて、それに気付けていなかったところも、見て見ぬふりをしていた部分もありましたね」。あるいはそんな心の内を、指揮官は見抜いていたのだろうか。

迎えた翌2018年シーズン。畑は期限付き移籍の期間を1年延長する。「自分の意志です。半年間試合に出られなかったことがメチャクチャ悔しくて、『このチームで試合に出て、点を獲って、活躍してからしか長崎に帰らない』と自分の中で決めたんです。秋田に来た時に、沼津でも一緒だったスタッフに『あの時、潤基は帰ると思ったから、残ってくれてビックリした』と言われましたね。でも、僕の中ではそういう気持ちがあって、残りました」

沼津デビューとなったJ3の開幕戦でゴールを奪ったストライカーは、力強くレギュラーを確保すると、このシーズンは25試合に出場して8ゴール。「前の年は試合にも出られなくて、1点も獲れなかったのに、J3ではありますけど、その次の年にJリーグの舞台でこれだけ結果を出せたことは、自信になりましたね」。自らの実力を数字で証明したこの1年は、プロキャリアの中でもとりわけ重要な時間だった。

長崎に帰還してから2シーズン目の2020年は、一定の結果こそ残せたものの、やはり味わった悔しさが印象深いという。「リーグ戦でも結構試合に出させてもらえるようになって、5ゴールも記録しましたけど、もっと決めるべきところを決めていれば、二桁ゴールも獲れたんじゃないかと自分では思っていますし、逆に自分があと5点ぐらい獲っていれば、自動昇格圏に入っていたんじゃないかなって。結果的に3位でしたし、悔しいシーズンでしたね」

2021年シーズンは栃木SCへと期限付きで移籍したが、ここでは今にも繋がるコンバートを経験していることも語り落とせない。「栃木では途中からサイドハーフになって、それから点が獲れるようになって、自分が得意なミドルシュートも出せるようになって、チャンスも作れるようになって、そこでやっと栃木にフィットした感じでした。予想外でしたし、やる前は『自分はフォワードなのに……』という気持ちはありましたけど、いざやってみたら結構しっくり来ましたし、『サイドハーフも楽しいな』と思えたので、それも良かったなと思います」。真摯に現状と向き合ったことで、プレーの幅を広げることに成功する。

特別指定選手時代から数えれば、期限付き移籍の期間も含めて5年間在籍した長崎への感謝は尽きない。「本当に長崎のファン・サポーターの方は温かくて、今でも秋田に来てくれたり、九州や四国での試合にも来てくれますし、長崎のサポーターに出会えたことも感謝していますし、『最初に良いクラブに行けたな』と思っています」

2022年シーズンはJ3リーグに所属するFC岐阜でプレーした。ここで学んだのは、トップレベルを肌で知る人たちのメンタリティだ。「(柏木)陽介さん、ウガさん(宇賀神友弥)、(田中)順也さんはみんな勝者のメンタリティを持っていました。負けることなんて考えていないですし、負けた後でも『次で取り返すから』という気持ちを常に持っていて、3人とも性格が全然違うのに、そういう感じが一緒なので、それは『J1や代表でそういうことを経験しているからなのかな』と感じました」

プロ生活7年目となる今シーズンは、ブラウブリッツのユニフォームに袖を通している。さまざまな経験をした今だからこそ、再び吉田監督とともに仕事をすることになった畑は、良い意味での“柔軟性”の大切さを実感しているようだ。

「もちろん自分の特徴は絶対にブラさずにやる中で、その上で監督から何を求められているかを考えるようにはなりました。たぶん、若く引退してしまう選手は、それを受け入れられない人だと思うんです。自分よりずっと上手かった人がもう引退していたり、プロになれなかったりするのもいっぱい見てきましたし、そこで多少自分を曲げるようなことも、プロで長くやっていくためには必要かなと思います」

だが、その上でこだわりたいのは、やはり『自分はフォワードである』という譲れない矜持だ。

「大前提として、チームとしてやるべき部分はやらなくては試合に出られないと思っています。でも、そこにプラスアルファして、どれだけゴールに向かえるか、ゴールを獲れるか、ゴールをアシストできるか、そういうことに前線の選手としてはもっとこだわっていかないといけないですし、正直今の秋田に足りないのはそういうところかなと。それを変えるためには残り試合で本当に点を獲りまくるしかないと思っているので、『ブラウブリッツ秋田のフォワードは守備もできるし、点も獲れる』と、そういうふうに印象付けたいという想いがあります」

その歓喜の瞬間を十分過ぎるほどに知ってしまっているからには、もうそれを味わえないことなんて考えられない。どれだけ全力で走り続けても、どれだけ守備に奔走しても、それはその瞬間を手繰り寄せるための準備であり、布石。畑にとってのサッカーとは、すなわちみんなに笑顔を連れてくる『ゴールを決めること』と、過不足なく同義なのだ。

文:土屋雅史
1979年生まれ、群馬県出身。
Jリーグ中継担当や、サッカー専門番組のプロデューサーを経てフリーライターに。
ブラウブリッツ秋田の選手の多くを、中・高校生のときから追いかけている。
https://twitter.com/m_tsuchiya18

YURIホールディングスPresents プレイヤーズヒストリー
ピッチ上では語られない、選手・スタッフのバックグラウンドや想い・価値観に迫るインタビュー記事を、YURIホールディングス株式会社様のご協賛でお届けします。
https://yuri-holdings.co.jp/

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