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オンライン研究会/外苑 聖徳記念絵画館の壁画謹製記録を読み解く

明治神宮ミュージアム/明治を描くー壁画に挑んだ画家たち

先日、山口蓬春記念美術館に行った際、明治神宮ミュージアムの招待券をいただいたので見てきた。

この企画展は明日12月1日(日)まで。
行く前にサイトを確認した際、オンライン研究会があることを知って申し込んでおいた。

明日まで開催中の企画展の内容はこちら。

明治神宮外苑の中心施設である聖徳記念絵画館。
そこに掲揚される明治天皇・昭憲皇太后の御事績を描いた80点の巨大壁画は、長い時を経てもなお鮮やかに、近代国家の礎を築いた明治という激動の時代を雄弁に物語っています。その裏には、壁画制作に精魂を込めた画家たちの並々ならぬ努力がありました。
画家たちの苦心譚として編集されていたこれら壁画の制作記録は、未完成のまま世に出ることはなく、後年草稿の一部が『明治神宮叢書』のなかで翻刻されました。昨今、失われていた残りの草稿が発見されたことで、すべての壁画についての制作背景が明らかになり、壁画研究の土壌がようやく整ったと言えます。本展は、新たに発見された草稿を含む「壁画謹製記録」の魅力を紹介すると共に、明治神宮所蔵の壁画下図を展示し、今日までの壁画研究の成果をご覧いただくものです。

https://www.meijijingu.or.jp/museum/exhibitions/

企画展に行った時に、そもそも「外苑 聖徳記念絵画館の壁画」を見ていないことが残念だった。
なので、外苑 聖徳記念絵画館に行く前にこのオンライン勉強会に参加したかった。

外苑 聖徳記念絵画館


聖徳記念絵画館(せいとくきねんかいがかん)は、東京都新宿区明治神宮外苑にある美術館
神宮外苑の中心的な建物で、幕末から明治時代までの明治天皇の生涯の事績を描いた歴史的・文化的にも貴重な絵画を展示している。維持管理は宗教法人明治神宮の予算で賄われており、他からの援助は一切受けていない。

ウィキペディアより

明治天皇の生涯と事績を後世に伝える役割のために作られた絵画館で、日本画40点、洋画40点、合計80点の壁画がある。

厳密な考証の上で描かれた80点の巨大壁画が展示されている。
これらの作品は日本の当代一流の画家たちによる優れた芸術作品であり、政治、文化、風俗の貴重な歴史資料でもあります。特に有名な作品は歴史の教科書でお馴染みの『大政奉還』邨田丹陵、『王政復古』島田墨仙、『五箇條御誓文』乾南陽、『江戸開城談判』結城素明などがあり、その大きさは縦約3m横約2.7mととても大きく壁一面にはめ込まれている為、壁画と呼ばれている。

https://www.museum.or.jp/museum/2323

これは見に行きたいので計画したいと思っている。

オンライン研究会 外苑 聖徳記念絵画館の壁画謹製記録を読み解く 第2回

プログラム

事前にいただいたプログラムの一部抜粋

報告1「日本画草稿群の全体像とその異動について」


登壇者:今泉宣子氏/明治神宮国際神道文化研究所主任研究員
岩手県生まれ。
東京大学教養学部比較文化論学科卒業。現職。
ロンドン大学 SOAS 博士課程修了。博士(学術)。

今泉氏の話の中に、冒頭「明治神宮奉賛会」が出てきたので以下調べてみた。
大正4年に「明治神宮奉賛会」が設立される。渋沢栄一はその中心にいた。
検索してみると、この記事には本日の報告者である今泉宣子氏の写真も掲載されていた。

明治神宮ミュージアムの1階にも神宮の森を植林する様子の10万人もの民衆の模型などがあり、上記のリンクを読んで納得した。

当時、明治神宮の誘致?には、13候補地39件が上がっていた。

・・・“明治天皇の御徳を万古に欣仰するには、参拝者が訪ねやすい場所でなくてはならない”と進言する。富士山や筑波といった形勝風致ではなく、東京の由緒こそ重要ではないのか……百戦錬磨の渋沢のプレゼン。大正3(1914)年、鎮座地は東京に決定した。

https://www.kokugakuin.ac.jp/article/260011

明治天皇の陵墓は京都に決まっていたため、帝都東京には「神宮」を建設するというプロジェクトが始まった。

今泉氏の報告の「日本画草稿群」。
こちらと「明治神宮叢書」を比べながらの話でそもそも知識がほぼ皆無なのでキャッチアップするのに時間がかかった。

まず平成15年に壁画65点の謹製記録を翻刻(書物を原本のままの内容で再び出版すること。)。

オンライン研究会資料より(PC画面撮影)
これがないと説明できないので載せます

日本画40点が左端に記載され、謹製記録の該当する部分が右列に○。
草稿は2つあって、●が平成15年翻刻時に原本とした草稿や、🔴は平成26年に所在を確認し、新たに翻刻した草稿。

例えば、21番「岩倉大使欧米派遣」(山口蓬春)は、4つの草稿がある。
ー(ハイフン)の数字が大きいほど新しいそうだが、

新しい方が必ずしも情報量が多く詳しいわけではなく、新しい方で記録が省略されている部分もあり、よって、今ある謹製記録は全部照らし合わせて研究する必要があるとのことだった。

この謹製記録は、壁画を作成するにあたって、史実を正確に描写しないといけないので、その調査や、画家の苦労などを記録しており、その双方がバランスよく残したいという意向があって、推敲の結果削除された部分もあったようだ。

今泉氏は具体例を挙げて、平成15年と平成26年の差異(省略された部分や、追加された部分)を解説してくださり、面白かった。

壁画のために「西南の役」の「模擬戦」までするの??

レジュメを載せていいのか迷うのだが・・・私がびっくりしたのは、
壁画作成のために、実施した「西南の役」の「模擬戦」(大正11年12月)。

調べてみたら記事があった。

明治神宮外苑の聖徳記念絵画館に、この攻防戦を描いた壁画「西南役熊本籠城」がある。大正11年12月3日の九州日日新聞(現熊本日日新聞)に、壁画の製作過程を伝える記事が載っている。見出しは「西南の役の模擬戦 明治神宮記念館に寄進する戦図作製」。記事には「当日は折柄の好天気で万に上る見物人が花岡山を始め藤崎台を埋めつくした」とある。

戦いから45年が過ぎた当時、ここで何が行われていたのだろうか。

絵を揮毫したのは肥後出身の日本画家、近藤樵仙(しょうせん)。明治神宮に残る「壁画謹製記録」によると、近藤は11年11月、実地調査と西南の役の生存者から薩兵の服装などを詳しく聴くため郷里に帰った。その際、熊本を本拠とする陸軍第6師団を訪ね、壁画を描くため花岡山に砲1門を引き上げ、「有煙火薬を以て発射願ひ度し」と希望を伝えた。

 これを参謀長は快諾し、砲兵60人の動員を約束。さらに「夫(それ)のみにては作画の参考には不足ならん」として歩兵約800人と、激戦地として伝えられる漆畑での小銃戦を提案した。「余りに厚遇に過ぐるなり」と答えた近藤に、「遠慮無用なり、事柄が事柄にて揮毫上必要あらば二千或は三千の出兵も差支なし」と述べたという。

 12月1日、熊本城に籠城した生存者に加え、「其の他市会議員、新聞記者等三十余名、花岡山に参集し尚中等学校生徒千余名も、参観の為群集し、雑踏を極めたり」(同記録)。近藤は大砲の発射を写生し、小銃戦を望遠鏡で観戦した。さらに写真師3人を雇い、模擬戦の様子を写真数十枚に収めたという。この写真は長く所在不明だったが、平成17年になって絵画館の倉庫から7枚が他の資料とともに見つかった。坂道で大砲を運ぶ様子などが写っている。

 壁画には同じように渾身の力で大砲を引き上げる薩兵の姿が描かれた。城下には火の手が上がり、奥には熊本城が小さく見えている。

https://www.sankei.com/article/20200425-EPNNXUOT4NLELOJAPZ3QU5VTRM/3/

今泉氏は、模擬戦には、熊本を本拠とする陸軍第6師団、熊本城に籠城した生存者まで参加したとおっしゃっていたが、そこまで・・・・。

壁画にかける思いがすごいなと思った・・・。

ここは笹川・秋葉稿で付け加わった河野圭一郎の談話
オンライン研究会資料より(PC画面撮影)
報告1 今泉宣子氏パート

報告1だけでもかなり充実。

報告2「結城素明画「江戸開城談判」壁画謹製記録から見る西郷隆盛」

登壇者:藤井 正弘氏/明治神宮外苑聖徳記念絵画館副館長
千葉県生まれ。玉川大学芸術学科美術専攻陶芸科を卒業。
明治神宮外苑に奉職。
平成25年より聖徳記念絵画館副館長に就任。

ここでは、山口蓬春や東山魁夷を育てた結城素明の壁画についての報告。
ここも面白かった。

ここで取り上げられたのは、薩摩藩邸で西郷隆盛と勝海舟が江戸城の無血開城に繋がる対談をした有名な歴史的場面。

https://www.tokyowalking.com/news/pg751150.html

この絵の右側が勝海舟だが、結城素明はこの勝海舟に名前も画号も名付けてもらったそうだ。

オンライン研究会資料より(PC画面撮影)
報告2 藤井正弘氏パート

そして資料では、この2人が江戸の本所という街で近所に住んでいたことなども紹介された。(だからこそ、名前を付けてもらえたのではないか・・・)

また勝海舟の左側に刀が置かれているが、もともとの資料では右側で、
なぜ左にしたのか・・・刀の絵の柄を見せたかった、いつでも切りかかれる緊迫感を描いた、など諸説あるらしい。
襖の奥には薩摩藩の西郷隆盛の部下が控えているという緊迫した談判を描いた歴史的場面。

ここでは、西郷隆盛の容姿についても触れられ、壁画を描くにあたって、画家がどのように情報を収集したのか、など解説があった。
(髪はどうだったのか、目が大きかったなどなど)

報告 3「山口蓬春と《岩倉使節団欧米派遣》—壁画謹製記録と山口蓬春記念館所蔵

登壇者:岡田 修子氏/ 山口蓬春記念館副館長兼上席学芸員
埼玉県生まれ。女子美術大学芸術学部芸術学科卒業。
平成8 年より財団法人ジェイアール東海生涯学習財団(現・公益財団法人 JR 東海文化財団)・山口蓬春記念館に学芸員として勤務し、現職。

報告3は山口蓬春。
この繋がりで、山口蓬春記念美術館から招待券をいただけたわけだ。

山口蓬春が描いたのは、「岩倉大使欧米派遣」。
予定していた画家が急逝して、お鉢が回ってきて、なんと9ヶ月で仕上げないといけなかったというタイトなスケジュール。

この左下の絵
https://www.meijijingu.or.jp/museum/exhibitions/

写真を参考にしたり、風景は横浜浮世絵を参考にしたり、いろんなものを駆使して仕上げた作品。

明治神宮ミュージアムにも山口蓬春記念美術館にもそのデータが残っている。
元々山口蓬春は記録魔だったらしい。

津田梅子の着物を姪に着せてモデルにしたり、自分の妻に洋装をさせて写真に撮ってモデルにしたり、絵を描く資料としてたくさんの写真を活用していた。

明治神宮奉賛会は壁画を作成した画家に、参考にした資料も一式後世に伝えるため、提出してもらおうと依頼をしていたが、これも戦争で叶うことがなかった。

その依頼の手紙がこちら。

オンライン研究会資料より(PC画面撮影)
報告3 岡田修子氏パート

中国西国巡幸鹿児島着御(山内多聞)

その他事前に調整されていたオンラインの向こう側から音声だけで3名の方がお話をされた。
その中で明治神宮ミュージアムにも今展示中の「中国西国巡幸鹿児島着御(山内多聞)」の話を、都城(昔は薩摩藩領地、現在は宮崎県)の美術館の方がされた。

現地の美術館には下絵があるが、壁画との違いを話され面白かった。

下絵では平民の足元に荷物があったり、座る途中の動作の人がいたりしたのが、壁画では荷物は省かれ、立っている人も金雲で曖昧にされている。
背景の山も金雲に直されていたり下絵と異なるらしい。

最後のパートより
オンライン研究会資料PC撮影

下絵は屏風にされており、「貸出可能です」というお話もあった。

またこの絵が描かれた時、鶴丸城の御楼門は失われていたということもその方の話で分かった。

山内多門は明治11年、宮崎県都城市に生まれ、少年の頃に郷里の狩野派絵師・中原南渓に入門。21歳までは小学校教師などをしていたが一念発起し周囲の反対を押し切り上京、川合玉堂に入門した。また玉堂の紹介で橋本雅邦(狩野派の絵師で川合玉堂の師でもある)に師事。そして発足間もない日本美術院に参加し、日本美術院の公募展に第2〜10回と連続で出品して華々しい成績を収めた。また帝展では2〜10回の審査委員をつとめるなど当時の日本画壇の中核的存在だった。

https://inakaseikatsu.blogspot.com/2022/07/blog-post.html

山内多聞は、川合玉堂に入門していたんだ・・・。
今年行った美術館が色々繋がる。

鹿児島の鶴丸城と御楼門。懐かしかった!

壁画でお堀のところは
今は蓮が植っている
御楼門
この門の木の一部は遥々岐阜県から来たものだったりする
私にとっては
鹿児島城ではなく鶴丸城


忘れないうちに、の備忘録。

聖徳記念絵画館、早く行ってみたい。そして壁画を見たい。。。

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blanche
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