オンライン研究会/外苑 聖徳記念絵画館の壁画謹製記録を読み解く
明治神宮ミュージアム/明治を描くー壁画に挑んだ画家たち
先日、山口蓬春記念美術館に行った際、明治神宮ミュージアムの招待券をいただいたので見てきた。
この企画展は明日12月1日(日)まで。
行く前にサイトを確認した際、オンライン研究会があることを知って申し込んでおいた。
明日まで開催中の企画展の内容はこちら。
企画展に行った時に、そもそも「外苑 聖徳記念絵画館の壁画」を見ていないことが残念だった。
なので、外苑 聖徳記念絵画館に行く前にこのオンライン勉強会に参加したかった。
外苑 聖徳記念絵画館
明治天皇の生涯と事績を後世に伝える役割のために作られた絵画館で、日本画40点、洋画40点、合計80点の壁画がある。
これは見に行きたいので計画したいと思っている。
オンライン研究会 外苑 聖徳記念絵画館の壁画謹製記録を読み解く 第2回
プログラム
報告1「日本画草稿群の全体像とその異動について」
登壇者:今泉宣子氏/明治神宮国際神道文化研究所主任研究員
岩手県生まれ。
東京大学教養学部比較文化論学科卒業。現職。
ロンドン大学 SOAS 博士課程修了。博士(学術)。
今泉氏の話の中に、冒頭「明治神宮奉賛会」が出てきたので以下調べてみた。
大正4年に「明治神宮奉賛会」が設立される。渋沢栄一はその中心にいた。
検索してみると、この記事には本日の報告者である今泉宣子氏の写真も掲載されていた。
明治神宮ミュージアムの1階にも神宮の森を植林する様子の10万人もの民衆の模型などがあり、上記のリンクを読んで納得した。
当時、明治神宮の誘致?には、13候補地39件が上がっていた。
明治天皇の陵墓は京都に決まっていたため、帝都東京には「神宮」を建設するというプロジェクトが始まった。
今泉氏の報告の「日本画草稿群」。
こちらと「明治神宮叢書」を比べながらの話でそもそも知識がほぼ皆無なのでキャッチアップするのに時間がかかった。
まず平成15年に壁画65点の謹製記録を翻刻(書物を原本のままの内容で再び出版すること。)。
日本画40点が左端に記載され、謹製記録の該当する部分が右列に○。
草稿は2つあって、●が平成15年翻刻時に原本とした草稿や、🔴は平成26年に所在を確認し、新たに翻刻した草稿。
例えば、21番「岩倉大使欧米派遣」(山口蓬春)は、4つの草稿がある。
ー(ハイフン)の数字が大きいほど新しいそうだが、
新しい方が必ずしも情報量が多く詳しいわけではなく、新しい方で記録が省略されている部分もあり、よって、今ある謹製記録は全部照らし合わせて研究する必要があるとのことだった。
この謹製記録は、壁画を作成するにあたって、史実を正確に描写しないといけないので、その調査や、画家の苦労などを記録しており、その双方がバランスよく残したいという意向があって、推敲の結果削除された部分もあったようだ。
今泉氏は具体例を挙げて、平成15年と平成26年の差異(省略された部分や、追加された部分)を解説してくださり、面白かった。
壁画のために「西南の役」の「模擬戦」までするの??
レジュメを載せていいのか迷うのだが・・・私がびっくりしたのは、
壁画作成のために、実施した「西南の役」の「模擬戦」(大正11年12月)。
調べてみたら記事があった。
今泉氏は、模擬戦には、熊本を本拠とする陸軍第6師団、熊本城に籠城した生存者まで参加したとおっしゃっていたが、そこまで・・・・。
壁画にかける思いがすごいなと思った・・・。
報告1だけでもかなり充実。
報告2「結城素明画「江戸開城談判」壁画謹製記録から見る西郷隆盛」
登壇者:藤井 正弘氏/明治神宮外苑聖徳記念絵画館副館長
千葉県生まれ。玉川大学芸術学科美術専攻陶芸科を卒業。
明治神宮外苑に奉職。
平成25年より聖徳記念絵画館副館長に就任。
ここでは、山口蓬春や東山魁夷を育てた結城素明の壁画についての報告。
ここも面白かった。
ここで取り上げられたのは、薩摩藩邸で西郷隆盛と勝海舟が江戸城の無血開城に繋がる対談をした有名な歴史的場面。
この絵の右側が勝海舟だが、結城素明はこの勝海舟に名前も画号も名付けてもらったそうだ。
そして資料では、この2人が江戸の本所という街で近所に住んでいたことなども紹介された。(だからこそ、名前を付けてもらえたのではないか・・・)
また勝海舟の左側に刀が置かれているが、もともとの資料では右側で、
なぜ左にしたのか・・・刀の絵の柄を見せたかった、いつでも切りかかれる緊迫感を描いた、など諸説あるらしい。
襖の奥には薩摩藩の西郷隆盛の部下が控えているという緊迫した談判を描いた歴史的場面。
ここでは、西郷隆盛の容姿についても触れられ、壁画を描くにあたって、画家がどのように情報を収集したのか、など解説があった。
(髪はどうだったのか、目が大きかったなどなど)
報告 3「山口蓬春と《岩倉使節団欧米派遣》—壁画謹製記録と山口蓬春記念館所蔵
登壇者:岡田 修子氏/ 山口蓬春記念館副館長兼上席学芸員
埼玉県生まれ。女子美術大学芸術学部芸術学科卒業。
平成8 年より財団法人ジェイアール東海生涯学習財団(現・公益財団法人 JR 東海文化財団)・山口蓬春記念館に学芸員として勤務し、現職。
報告3は山口蓬春。
この繋がりで、山口蓬春記念美術館から招待券をいただけたわけだ。
山口蓬春が描いたのは、「岩倉大使欧米派遣」。
予定していた画家が急逝して、お鉢が回ってきて、なんと9ヶ月で仕上げないといけなかったというタイトなスケジュール。
写真を参考にしたり、風景は横浜浮世絵を参考にしたり、いろんなものを駆使して仕上げた作品。
明治神宮ミュージアムにも山口蓬春記念美術館にもそのデータが残っている。
元々山口蓬春は記録魔だったらしい。
津田梅子の着物を姪に着せてモデルにしたり、自分の妻に洋装をさせて写真に撮ってモデルにしたり、絵を描く資料としてたくさんの写真を活用していた。
明治神宮奉賛会は壁画を作成した画家に、参考にした資料も一式後世に伝えるため、提出してもらおうと依頼をしていたが、これも戦争で叶うことがなかった。
その依頼の手紙がこちら。
中国西国巡幸鹿児島着御(山内多聞)
その他事前に調整されていたオンラインの向こう側から音声だけで3名の方がお話をされた。
その中で明治神宮ミュージアムにも今展示中の「中国西国巡幸鹿児島着御(山内多聞)」の話を、都城(昔は薩摩藩領地、現在は宮崎県)の美術館の方がされた。
現地の美術館には下絵があるが、壁画との違いを話され面白かった。
下絵では平民の足元に荷物があったり、座る途中の動作の人がいたりしたのが、壁画では荷物は省かれ、立っている人も金雲で曖昧にされている。
背景の山も金雲に直されていたり下絵と異なるらしい。
下絵は屏風にされており、「貸出可能です」というお話もあった。
またこの絵が描かれた時、鶴丸城の御楼門は失われていたということもその方の話で分かった。
山内多聞は、川合玉堂に入門していたんだ・・・。
今年行った美術館が色々繋がる。
鹿児島の鶴丸城と御楼門。懐かしかった!
忘れないうちに、の備忘録。
聖徳記念絵画館、早く行ってみたい。そして壁画を見たい。。。