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【本人インタビュー】ブラン・チャンの森まどか奮闘記③

まだまだ続きます、ブラン・チャンの森まどか奮闘記。
前回までのあらすじ(あらすじ!?)ついに憧れの「ねえ・ねえ・ねえ」のレコードを手に入れたブラン・チャン。ライブにも遊びに行き、ご本人とついに対面。好きなあまり、自身でもカバー曲を出してしまう。

そしてふと思う、まどかさんのこと……何も知らなくない!?
DJの間で話題になっても、高額レコードであること(主に最近の「ねえ・ねえ・ねえ」の相場はどうだこうだの話)、小泉今日子の元ネタだったこと以外、何も情報がなくないか!?
こんなに好きなのに何も知らないままじゃ……このままじゃ……いられなくないか!?と叶わぬ片思いのような感情を抱いておりました。
以前ライブ中のMCでデビュー当時の話をし始めたものの、時間の都合で聞けなかったのも心残りだったので、もしインタビューできるのなら……と思い切ってご連絡させて頂いたところ即OKのお返事を頂き、ご本人とお話しする機会をいただきました。


貴重すぎる当時の写真の数々

明るく出迎えてくれたまどかさん、「ブランチャンって……そもそも日本人なの!?」と驚かれつつ、私がまどかさんのレコードを知った経緯(レコード屋の壁に高額盤として飾ってあり、その後YouTubeで曲聞いてどハマり。手に入れるまで数年かかる…などなど、過去記事もご覧ください。)などお喋りから始まり、当時の写真を見ながらデビュー時を振り返りました。

デビューして間もない頃。前髪も短く幼さが……凄まじい……!
光っちゃってすみません
可愛い、若い……「若いどころじゃないよね」と本人も苦笑

まどかさん「もう子供すぎて……孫を見てるようだわ」
沢山の貴重な資料をお持ち頂きました。ありがとうございます!!


生い立ち、歌を初めたきっかけに迫る

(文中、人物名は敬称略で表記する場合があります)

北海道・札幌生まれのまどかさん。服飾デザイナーの父、バレリーナだった母の一人娘だった。
あまりキャピキャピした性格ではない、大人しめな子供だったと振り返る。
おじいちゃんっ子、あばあちゃんっ子でもあったけど、一人で遊ぶ時間が多かったという。
両親の持っていた歌謡曲のレコード(弘田三枝子、奥村チヨ、越路吹雪、布施明etc…)を聞いて育ち、4歳頃から一人で遊ぶときにはこっそり歌うのがお気に入りに。
5歳の頃、札幌のラジオ局で行われた「ちびっこインタビュー」(正式な番組名不明)公開収録へ連れて行ってもらうと、弘田三枝子の「人形の家」をアカペラで披露。すると歌声に周りは大絶賛。
自分の歌で人が喜んでくれることを嬉しく感じたきっかけだったと語る。

両親の知り合いが歌謡学院を開くことになり、通い始める。
しかしレッスンを担当していた講師が札幌を離れることになり、「まどかちゃんをこのまま終わらせるわけには……」とヤマハボーカルセンターへ紹介され移籍することに。


ヤマハボーカルセンターから、デビューまで

ヤマハボーカルセンターでは毎月、地方の生徒の録音テープを東京・目黒の財団ヤマハへ送らなければいけないシステムで、小学校5、6年生の頃は毎月様々な歌を録音して送っていたという。
まどかさんの歌声に注目した財団ヤマハは、財団に所属のあった女子歌唱グループ「ピクルス」のメインボーカルに抜擢する。

本選会に向け、普通の小学生だったまどかさんの生活は一変。
毎週日曜日は、母と札幌ヤマハの講師と3人で、始発の飛行機で札幌から東京へ。
一日中歌のレッスンをして、最終便でまた札幌へ帰り、学校生活を送り……。
本当に目まぐるしいスケジュールだったと振り返る。
第13回ヤマハポピュラーソングコンテスト つま恋本選会ピクルス「蒼い炎」(譜面応募曲)優秀曲賞受賞。

「数々のレコード会社や事務所からお声がかかりましたが、桜田淳子さんや岩崎宏美さんが大好きだったので同じビクターを選びました」


ビクター所属 「ひまわりの夏」「ねえ・ねえ・ねえ」リリース

ビクター所属、堀越学園中等部入学に伴い家族と共に上京。
1978年6月25日ファーストシングル「ひまわりの夏」でデビュー。
当時はラジオ・テレビ局各局のオーディションを全て受けなければ、各番組への出演が許されなかった。
同じ日にデビューしたアイドル・歌手は多数いたものの、中でも衝撃だったのはサザンオールスターズ。
「しかもいろんな事務所総出で、ものすごい人数でまとまって移動していたんです。大勢の大人に混ざって私は一人ちっちゃな子供で……サザンの皆さんには『なんでこんな子供が混ざっているんだ?』って変に思われていたんじゃないかしら…」

銀座三越の屋上で行われた「ひまわりの夏」発表会

「三越のデパートの屋上で開催した新曲発表会には岩崎宏美さんと一緒に出ました。宏美さんのお母様が私のレコードも買って行ってくださって……。宏美さんとは度々同じイベントに出られて光栄でした」


かつて千葉県勝浦市にあったレジャー施設「行川アイランド」のマスコットガールに抜擢され、月に数回ライブやイベントも行っていた。
「フラミンゴはとっても綺麗だったけど、虫が嫌いだったから野外の活動は大変でした…。中でも楽しかった思い出は、『ギャル』(当時キングレコード所属)の3人と一緒のイベントの日があって、一緒にご飯を食べたり帰りも移動したり、修学旅行みたいで楽しかった。東京からは遠かったんだけど、たくさん行ったなぁ、行川アイランド……」
と閉園した行川アイランドに思いを馳せる。

数々のステージ、ラジオ出演の写真。(右上)浜っ子吉村、小堺一機と共に 行川アイランドにて。
まどかさんもお気に入りの楽屋での一枚。

「『ひまわりの夏』『プチ・プチ・チャチャチャ』のステージ衣装は服飾デザイナーだったお父さんのお手製でした。
『プチ・プチ・チャチャチャ』は歌も一番お気に入りで、実はコーラスは、タイム・ファイブが担当していたんです」

ひまわりの夏 父制作衣装
ひまわりの夏 父制作衣装
プチ・プチ・チャチャチャ 父制作衣装

(ひまわりの夏の衣装は動画でも確認できる)

翌年1979年4月25日セカンドシングル「ねえ・ねえ・ねえ」リリース。
超貴重!「ねえ・ねえ・ねえ」ステージ衣装が存在した。
札幌テレビの昼番組(番組名不明)に出演した際の映像を誰かがYouTubeに投稿したこともあったというが、消されてしまったそう……映像持っている方、情報わかる方、よろしくお願いします……。

ラジオ日本(元ラジオ関東)歌番組「ハローヤングラブ」公開生放送。町田市・大丸デパートでのステージにて。
紅いリラの花イメージか、真っ赤なチャイナドレス風の衣装。14歳、少し大人に近づいたまどかちゃん。
左から右へ、成長と共に顔つきも大人らしくなっていく。


しかし「ねえ・ねえ・ねえ」リリース直後、ビクターを退所。


小泉今日子デビュー曲「私の16才」へ受け継がれた愛情

ビクター退所は突然去る形となってしまったと語る。
「ねえ・ねえ・ねえ」制作ディレクターだった高橋隆(「走れコウタロー」実況でも知られる)氏はまどかさんへも、曲への愛情も強く持っていた。

高橋氏は後に小泉今日子の制作ディレクターを務めることになる。
「スター誕生」出場後、デビューを控えていた小泉今日子。
デビュー曲を悩んでいた小泉所属事務所の社長、周防氏は「デビュー曲は何かのカバーにしたい。何か良い曲はないか?」と高橋氏を尋ねに行った。
高橋氏が机の中に入れていた「ねえ・ねえ・ねえ」のカセットテープを聞かせたところ、即決だったという。
「とても心から愛情をもって『ねえ・ねえ・ねえ』を制作してくださった高橋さん。私にもっと歌わせたかったという強い思いもあって、あの曲を推薦してくださったのじゃないかと思う。キョンキョンに受け継がれて、ビクターに居た証を残すことができて本当に良かった。
よく、『曲を盗まれたのでは?』なんて言われることもあるけど違って、曲を残してくださった高橋さんにもキョンキョンにも大感謝なんです!」


新しい歌、表現との出会い

「その後は、ピンクレディーの歌唱指導もしていた山﨑アキラ先生にレッスンを担当して頂きました。一つの歌をどう歌い上げるか、たくさんのことを学びました。今の森まどかの歌の表現は、山﨑先生無しには生まれていなかった。とても感謝しています」
表舞台から一度は遠ざかるものの、常に音楽と共に生活を送っていた。
歌の完成度をより高めていた時期だったと振り返る。今のまどかさんの情熱的かつ波のある歌唱表現は、山﨑アキラ氏から受け継いだものだと語る。

20代になると、歌手のマイラ・ケイ氏に誘われ芝浦インクスティックにライブ出演。
バンドマスターであった村上“ポンタ”秀一氏からは後に、村上“ポンタ”秀一 デビュー25周年記念アルバム「WELCOME TO MY LIFE」への誘いを受け「LES DESSOUS CHICS(シック)」を歌唱。

再び表舞台に立つこと、ライブへ精力を出すきっかけとなった。


現在はフリーランスで活動中のまどかさん。
ライブでは歌謡曲、ジャズ、バラード……他、ジャンルに囚われず幅広い表現・歌唱力で楽しませている。
CDも発売中の「夜明けのタクシー」は英語、フランス語、スペイン語……と各国の言語で歌われ、最新版ハングル語編もYouTubeにて発表中。
オフィシャルYouTubeにて過去曲からライブの様子まで数多く掲載。


9月19日(木)開催 共演 山本友子、中谷幹人、三井大生
9月24日(日) 堀江淳、黒木じゅんと共に定期開催している「トリプルヴォイス」

9月は六本木「Club t」、お母様が営んでいる自由が丘「まどか」にてライブが行われる。

「本当にたくさんの方の支えで、活動を続けることが出来ました。これから楽しいことがたくさん待っていると感じています。いろんな歌や、いろんなことにどんどん挑戦していきたい!」と前向きで、幼い頃と変わらないひまわりのような笑顔を見せるまどかさんでした。

「夜明けのタクシー」と共に

おまけ こぼれ話①堀越学園の思い出

堀越学園での思い出は天馬ルミ子と同じクラスだったこと。
「ルミちゃんは三姉妹の長女だったからか、とっても大人びた子で。私は体格も性格も子供なのに、同い年でこんなに差があるのかと驚きました。大人なルミちゃんから、いつも色んなことを教えてもらっていました。本当のお姉さんみたいだった」

こぼれ話②仙台で爆売れしていた?「ねえ・ねえ・ねえ」

当時、仙台のビクター支所へ電話をかけると「こちら、森まどかのビクターです」と電話に出るという噂が。
試しに当時のマネージャーが電話をかけてみたところ、本当にそう返事が返ってきたそうです。
もしかしたら、「ねえ・ねえ・ねえ」のレコードは仙台に多く眠っているかもしれない……。

こぼれ話③「あまちゃんのアレって……」

NHK朝ドラ「あまちゃん」は主人公がかつて母親が歌った曲「潮騒のメモリー」をカバーするストーリーが含まれている。
なお母親役は小泉今日子が演じている。
小泉今日子が森まどかのカバー曲でデビューした経緯を脚本に盛り込んでいるのでは?と度々私のDJ友達が語っていた。(私自身あまちゃんの記憶そんなになくてざっくりしか覚えてないのでまた見たい)

ちょっとインタビューとは脱線するんですが……と上記をお話しすると、まどかさんも「あっ!!」と驚かれる。
「あれってそうだよね……?」とまどかさんも薄々感じていたようで、昔twitterに「潮騒のメモリーカラオケで歌った!」と投稿するとかなりの反応が返ってきたという。
クドカン!真実を教えてくれ……!


終わりに

この上目遣いで見据えるお顔が、まどかさんらしい

まどかさん、お忙しい中お時間を作っていただき、沢山の貴重なお話、見切れないほどの沢山のお写真をご用意していただきありがとうございました。

私が初めてレコード屋で「ねえ・ねえ・ねえ」を見かけて以来数年間探していた、確かな情報も少なく、幻のように思えた『まどかちゃん』は確かに存在していました。
これからもたくさん応援しています!

そしてネットで見かけた、ブロマイドと販促用レコードのセットを再現。恐らくセットで販促していたのではないかと推測。ついに謎が解けた!
沢山のお話ありがとうございました!むしろ私の話もたくさんきいていただいて……

まだまだこれからも、まどかさんの話題は記事にしていきたいと思いますので、当時の思い出がある方、もしこの記事を見てたら教えてくださると嬉しいです。
次回は楽曲感想編、衣装考察編……なるか!?

それでは再見、ブラン・チャンでございました。

ブランチャン各連絡先(何かございましたらご連絡ください。)
メール blancbiribiri🌟gmail.com
Twitter→@blanc_chang_
Instagram→@tea_dotta

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