3分小説 : 不眠列車
もう夜は深いのに、眠れぬ時間が続く。老人はベッドに横たわりながら、窓の外に浮かぶかすかな光を見つめていた。もう何度目かの不眠症の夜だった。時計の針が静かに進む音だけが、彼を現実に繋ぎとめていた。ふと、過去の出来事が頭をよぎった。それは、数十年前のある深夜の特急列車での出来事だった。
上野から長野へ向かう最終の特急列車の中。彼は仕事を終え、疲れた体をシートに沈めていた。列車のリズミカルな揺れが心地よく、目を閉じてうとうととし始めたとき、隣の席に座る女が突然話しかけてきた。
「ねえ、あなたもよくこの時間の列車に乗るの?」
声は予想外に明るく、彼はぎょっとして目を開けた。話しかけてきたのは、20代後半くらいの女性。髪は乱れていて、どこか浮ついた様子があった。変わった人だな、と思ったが、無視するわけにもいかず、軽く頷いて答えた。
「ええ、まあ…」
軽く答えを返したが、それ以上会話を広げる気にはなれなかった。何か独りよがりなことを語り出すんじゃないかと警戒していたのだ。しかし彼女は、止まることなく話し続けた。
「最近、この列車に乗るたびに不思議な夢を見るの。遠い場所に行って、全然知らない場所で目が覚めるの。あなたはそんなことない?」
彼はまた軽く首を振った。深夜の列車の乗客は皆、自分の世界にこもり、眠りを求めるのが普通だ。変わったやつだな、と内心でため息をついた。
女はどこか風変わりで、妄想に囚われたような言葉を次々と口にした。彼は、早くこの列車が終点に着くのを待ち望んだ。どうせ、迎えに来る人もいないのだろう。変わり者には違いないのだから。
列車はやがて、途中の小さな駅に静かに止まり、車内にはわずかなざわめきが流れた。彼女は、その駅で降りる準備をして立ち上がった。
「じゃあ、ここで降りるわ。またいつかね。」
そう言って彼女は軽く手を振り、列車を降りた。彼はそれ以上気に留めることなく、再び目を閉じた。きっとこの駅で降りても誰も迎えに来ないだろう、と思いながら。
3分ほど停車しただろうか。列車はまたゆっくりと動きだした。ふと窓の外に目をやると、駅前の小さなロータリーで彼女が誰かを待っている姿が見えた。その瞬間、小さな子供が彼女に向かって駆け寄り、彼女の手を握った。さらに、その後ろから夫らしき男性が現れ、白い歯をのぞかせた。彼女は家族に囲まれ、穏やかな笑顔を浮かべていた。
「おかえり」と聞こえる声が、窓越しに彼の耳に届いた。彼は、その光景を呆然と見つめた。平凡で、幸せな光景がそこにあった。
新聞配達のバイクの音が、老人を現実に引き戻した。窓の外が少しずつ白み始め、早朝の空気が彼の部屋に静かに流れ込んでくる。眠れぬ夜は、いつの間にか終わりに近づいていた。
新聞がポストに投函される音を聞き、彼はベッドからゆっくりと起き上がり、玄関に向かった。ポストに入っていた新聞を手に取り、リビングのテーブルに座って一面を広げる。
「今日のニュースは…」
特に目新しいことは書いていないように見える。だが、なぜかそのページの文字が、彼の目にすっと入ってきた。彼はページに目を走らせながら、心が静かになっていくのを感じた。昨日の出来事、回想の中のあの女、すべてが一時的に薄れていく。
新聞を閉じてから、静かに目を閉じ、ようやく安らぎの中に身を任せた。今度こそ、深い眠りが訪れそうだ。