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言語における意味の意味 (一般に存在しない症状を経験した人向け)

概要

本稿では、思考の限界という実存的絶望を180度変換させる試みである。

アントナンアルトーにおける舌語と絡めて

舌語とは?

舌語とは、漢字から類推されるように、個人が生み出した造語のことである。

一般に広まった例として、オノマトぺである
ワクワク→心が躍るイメージ
ジメジメ→陰湿なイメージ

このように、実際に波形として起こせないものに対する造語を本記事で舌語と定義する。

アントナンアルトーにおける舌語の位置付け

以下ChatGPT Plusで生成

アントナン・アルトーは、精神的な苦悩を舌語表現という形でアートに変換し、その革新的なアプローチで現代劇場に大きな影響を与えました。
彼の生涯は精神病院での長い期間を含む闘病生活と、創作活動とが深く絡み合っていました。
アルトーは、社会の規範や合理性を超えた独自の精神世界を追求し、その過程で舌語という独特の言語表現を用いました。
この舌語は、彼が経験した精神的な状態や、内面の探求を表現する手段となりました。

アルトーの舌語は、彼の創作活動の最終期に特に顕著であり、彼の作品における最も実験的で挑戦的な要素と言えます。
この時期の彼の作品は、人間の潜在意識を解放し、内面の真実を暴くことを目指した「残酷劇場」の理念とも密接に関連しています。
アルトーの舌語は、従来の言語の枠組みを超えた表現として、現代の多くのアーティストや思想家に影響を与え続けています。

詳しいバイオグラフィーや彼の舌語に関する情報は、以下のリンクから参照できます:
- [ブリタニカ百科事典](https://www.britannica.com/biography/Antonin-Artaud)
- [ウィキペディア](https://en.wikipedia.org/wiki/Antonin_Artaud)
- [ポエトリー・ファウンデーション](https://www.poetryfoundation.org/poets/antonin-artaud)

つまり、彼は、思考の限界と演劇という身体表現に過度にこだわったため、どこまでも徹底的に確実な強度を剋ち取ろうとしたと私は考える。

思考の認知おける位置付け


私は、認知を以下の作用機序で持って行われると推察する。

そのため、順序を変化させてしまい恐縮ではあるが、誰しも、共有しているであろう以下の体験から、人の存在の強度を証明したく存ずる。

意味における人の強度

瞬きの瞬間、視覚情報は絶たれる。
CMの間、ドラマ情報は絶たれる。

しかし、人は、断絶された情報においても連続性を持った塊・物語・意味(ゲシュタルト, 個々の総和よりも全体の情報は大きい)があると考える。

線形・非線形いずれにせよ、ゲシュタルトを補完しているはずである。

そのため、実存的危機(アウシュビッツ収容所に収監されたフランクル等)に陥っても、意味をここに創発することが可能であると考える。(しかもフランクルは、94歳まで生きているのだ…!)

創発とは、周囲の文脈によって前面にある言葉の強度が増すことであると考える。

具体例として、

  • 俺はWindowよりもMac派だぜ!(Logic Proついてくるしー)

  • 私は、Mos BurgerよりもMac派だわ!(どうせファストフードなんてどれも一緒でょ)

空間における人の強度

まず前提として、体を所有する各個体の空間は交わることは不可能であることを思い出してほしい。

その上で、各個体が占有している空間は何者にも浸食されないという意味でその人の絶対性という意味で強度である。

上記は静的な意味(てんかん発作・脳震盪における状態)でも解釈可能であり、動的な意味(身体表現・スポーツ・ダンス等)ではさらに強度が増す。

意志における人の強度

自由意志があると一般に思われているようだが、私は、単純にそうは思わない。

人の了解不可能な感覚としてクオリアという概念があるが、クオリアのような絶対性は、脳の構造が若干各個人で異なっていることから、数値化できない、つまり、言語化できないことは有り得ない と考えている。(現AI、特に、AntropicのClude 3.0がIQ100を有している観点から見ても)とされているが、いずれは量子コンピュータの普及により時間の問題とされる。

また、脳は直接、各個人が観測できないことから、プラトンのイデア(椅子という言葉のイメージが各個人によって異なる意味合い)と同じであることから、自由意志とは、不自由の存在を前提としたものと云わざるを得ない。

脳を前提とするため、脳に縛られるように。

例として、唯識(この世は全て脳の電気信号によって生み出されているもののため、それ以外の現象、例えば、テレビの生中継は、1と0の画素の時系列データとする寂しい考え方)等

そのため、ただやればいい。

それが、意志における人の強度

と私は考えている。

上記の強度の私の定義から、以下の認知機構を再構築する。(以下は不可逆モデルと仮定する

  1. 知覚→上記の強度

  2. 捨象→集中するために、不必要な情報を切り捨てること

  3. 短期記憶→曲の理解をした時には、曲の始まりを忘れていることは有り得ない等の現象から推察される

  4. 思考と問題解決→各経験から共通するパターンから独自解決方法の探索

  5. 理解・把握→異質な現象に深い味わいを覚えること

深い味わいに関して、人が死ぬ現象に見舞われた時、物理的に感覚器官が遮断されることから(睡眠の経験を思い出してほしい)、人生に終わりを想定するべきではないと考える。


そのため、私も経験済みであるが、

この世に、真の思考を想定することで、

最初に述べたアントナンアルトー等に精神を病むリスクが考えられ得る。

味わいの先には何もないどころか、無限に広がる世界がただあるだけである。

そして、最新宇宙物理学では、インフレーション理論が再定義されたため、大変穏やかな気持ちになっている。

(以前は、宇宙の始まりに虚数を想定していたためである)

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