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ナショナリズム批判

はじめに

 本稿は『ナショナリズムを解毒する「これからの愛国心」』(仮題)の前半部として構想されたものである。同書は目下のところ後半部が頓挫しており、執筆継続の目処が立たないため、一旦これまでに書き進めてきた部分をnoteに掲載するかたちで公表することにした。 今後、全体を脱稿できた場合には、本稿に加筆・訂正を施すかもしれず、また本稿自体を削除する可能性もあるが、諒とされたい。


第一章 原初的構図
 第1節 社会と国家
  市民社会と民主国家

 まず、社会(society)と国家(state)についての考察から始めよう。そのためには、拙著『改憲後の社会と国家のために』で示した見取り図を再説したい。
 
 行論の端緒として選ばれるのは「市民社会」である。我々が生きる近代社会とは、端的に言って市民社会だからである。
 市民社会とは何か。

 市民社会とは、「(民族を母体とした)市民経済」である。

というのが同書における再定義であった。
 また、具体的には、市民社会派の学者として知られた高島善哉が『人間・風土と社会科学』で次のように説明している通りであろう。

 簡単に言えば、政治的には民主主義、それから経済的には、自由主義の社会、これがずばりといって市民社会だということになりましょう。いずれにしても市民はすべて基本的人権の持ち主として平等であり、自由であり、対等だということになる。政治的には平等な投票権、経済的には等価の原則が支配するような社会、その結果として個人の繁栄と社会の正義が約束されるような社会が実現する。これが市民社会というものの原像とみてよろしいかと思います。

 そして、このような市民社会を基礎として「民主国家」が成立している。したがって

 民主国家は、市民社会に立脚した国家である。

そして、このような国家が、(市民社会の)私的な活動ではカバーしきれない領域(公共道路や水利の管理・保全、治安の維持、あるいは領土の防衛など)をカバーするのである。


  階級社会と階級国家

 市民社会と民主国家が社会と国家の原基的な本体である一方で、それぞれの疎外的な実態が「階級社会」と「階級国家」である。
 階級社会とは、経済的に不平等な人口集団からなる社会である。渡辺雅男の『市民社会と福祉国家』によれば、「近代社会では、不平等と対立を原理とする階級社会の側面と、平等と共同性を原理とする市民社会の側面とが葛藤を演じつつ、二者闘争的な編成原理を表現している」。
 また、階級国家とは、搾取階級が被搾取階級をおさえつけておくための組織としての国家である。


 ここまでの説明を図示すると、図1のようになる。

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(図1)

 第2節 民族という層位

 さて、先ほど「市民社会とは、『(民族を母体とした)市民経済』である。」と述べた。しかし、この表現には、実は一考の余地がある。それは、社会が市民社会と階級社会の、国家が民主国家と階級国家の二元性において把握すべきなのと同様に、民族もまた「原基的本体」と「疎外的実態」の二元性において把握されるべきだからである。
 原基的本体としての民族を、「国家」や「社会」のような「層位」としての民族(ethnie)から区別するために、ここでは「同祖共同体」という造語を用いるようにしよう。また、その英訳としては “folk” を当てることにしよう。
 このような同祖共同体は、市民社会の母体として、市民社会に先行するものとして捉えられる。
 一方で、疎外的実態としての民族も考えられるはずである。それは、階級社会と階級国家の下で、抑圧する側と抑圧される側に分かれた民族である。我々はこのような民族を「種族」(ethnic group)と呼ぶことにしよう。

ここまでの説明を図示すると、図2のようになる。

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(図2)

第3節 便宜的通念としての《国民》

 これまで説明してきた国家や社会・民族は、「本体」にせよ「実態」にせよ、社会科学的な見方によって把握した、実在する人間集団の総体であった。しかし、こうした概念的な観測装置を用いて社会等を考えるやり方は、必ずしも一般的ではない。多くの場合、つまり通俗的には、国家・社会・民族は未分化のまま《国民》として認識されているのではないだろうか。我々はこのような《国民》を、様相においては「便宜的」であるものとして、またその特質については「通念」という規定が妥当するものとして措定できるであろう。
 人間集団の総体は国家(state)・社会(society)・民族(ethnie)という三つの層位より組成されている。そのうちのいずれにアイデンティティを重点的に置いているかは各人で異なるはずなのに、そうした諸個人の集合体を《国民》の一語で括ってしまうのでは粗雑すぎるという指摘は可能だろう。しかし、国際社会の内で、他の諸国民からの視線によって自らの一体性を認識させられることで、そして外部諸国民の眼差しを内面化することで、国家・社会・民族それぞれの一員としての独自の視点は一定程度の後退を余儀なくされていると考えてみたらどうだろうか。
 国家・社会・民族のそれぞれへの軸足の置き方が違う者同士でも、さほど社会科学的でもない言説の応酬に際しては、多層的な人間集団の総体を、便宜的通念である《国民》として自明視することで、さしあたりコミュニケーションを成立させているのである。

 これまでの説明を図示すると、図3のようになる。

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(図3)

 この意味での《国民》こそが、ナショナリズム(nationalism)が対象とするところの「ネイション」(nation)である。そうであれば、「ナショナリズムとは、『ネイション』への肯定的なこだわり」であるという植村和秀氏による定義(※)は、「ナショナリズムとは、《国民》への肯定的なこだわり」であると読み替えられるだろう。

※植村和秀『ナショナリズム入門』(講談社現代新書)より。


第二章 諸個人の統合的ナショナリズム

 第1節 《国民》が内包する三層位

 単一の総体として便宜的に受け入れられている《国民》は、国家という層位を内包している。
 国家の特色の一つは、その制度性にある。民族や社会に比して人造的な層位である国家は、ヨリ堅牢な性格を有している。
不断に揺動する日常意識においては、この《国民》と(堅牢なる)国家がしばしば同一視されて、やがて、その同一態があたかも自明な存在であるかのように観念される。このような同一態こそが、いわゆる「国民国家」であると考えられる。

 このようにして「国民国家」が自存視されると、《国民》に内包されていた社会と民族の層位が自ずから「国民国家ではない《国民》」と観念されるようになる。このような《国民》は「(狭義の)国民」と位置づけることができるだろう。また、この「(狭義の)国民」との対比では、既述の《国民》は「(広義の)国民」として理解することが可能であろう。
 
 また一方で、不安定な日常意識においては、想念の居留点を求めて、《国民》は、(国家・社会に比べて)より根源的な層位である民族としばしば同義になる。「民族」に “nation” という訳語が付される場合があるのも、こうした事情を反映してのことであろう。このように、(特定の)民族と同義になった国民を我々は「特定国民」として把握できるだろう。例えば、「日本国民」や「アメリカ国民」などの呼称で指し示される対象がこれに該当すると言えよう。

 さて、狭義の「国民」に内包されていた「民族」が「特定国民」として把握されると、もう一つの構成的層位であった「社会」はどう理解されるであろうか。
 原基的本体である「市民社会」に立ち返って考えてみよう。市民社会には経済体としての側面と政治体としての側面がある。拙著『改憲後の社会と国家のために』では、これを「コモンウェルス」と「コミュニティ」として述べておいた。
 字義的に、コモンウェルス(commonwealth)とは「共通の富」という意味である。市民社会の物質的な面と言ってよいであろう。これに対し、コミュニティは市民社会の人間集団的な面ということになろう。
 さて、通念としての国民においては、その物質的な面は捨象され、人間集団としての面が強調されてくる。この場合、国民の社会的層位はコミュニティ(共同体)として立ち現れてくるだろう。
 「国民国家」や「(狭義の)国民」とは異なり、同一化や同義化のような一体化がなされる動因はここでは相対的に微弱である。社会はそこまで《国民》を取り込まないので、両者は並列的なのである。したがって、我々はこのような共同体(コミュニティ)を、社会と同列化された《国民》と見做しうるだろう。
 このような共同体を我々は何と普段どう呼んでいるだろうか。例えば、「日本社会」という固有名詞がそれに該当するだろう。それがアメリカの場合であれば「アメリカ社会」、スコットランドの場合であれば「スコットランド社会」という呼び方でそれらの共同体を指し示すであろう。
 固有名詞の使用はなるべく一般化して行論を進めているここでのアプローチと合致しないので、こうした(通念としての)共同体を一括して、これ以降は「国号社会」として扱う。
 「便宜的通念」と区別するために、こうした意味での国民国家・国号社会・特定国民をまとめて「改釈的通念」と呼んでおこう。

 第2節 統合的ナショナリズムの三類型

  国家主義的忠誠心

 ここまで来ると、個人に公民権を付与する主体は国民国家であるかのように表象される。この「付与」に対して、公民としての個人が国民国家への報恩の思いを抱いたとしても無理からぬところであろう。こうして産まれてくるナショナリズムが「国家主義的忠誠心」である。


  連帯的念慮

 市民社会の一員である市民が社会への帰属感情を抱くとき、その対象は、既に通念化している「国号社会」(日本社会、アメリカ社会、等々)である。我々が「国の安寧と繁栄を念う」ときには、こうした市民たちとの連帯において社会の行く末を念っている。このようなナショナリズムは「連帯的念慮」であると言えよう。


  家族感情的国民主義

 同祖共同体の要素的単位として家族は、民族と同義化した《国民》、すなわち特定国民を、家族関係の延長として把握するようになる。ナショナリズムもまた、こうして家族感情的な色彩に染め上げられる。家族の成員が抱くナショナリズムは「家族感情的国民主義」となる。

 国家主義的忠誠心・連帯的念慮・家族感情的国民主義のいずれも、近代において個々に独立している個人を統合させるように働く。このことから、これらは「統合的ナショナリズム」として把握することが適切であろう。

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(図4)


第三章 《国民》の変様と排外主義的メンタリティ
 第1節 《国民》の変様

 国家・社会・民族を分別しないで把握することによって生じる(広義の)《国民》という便宜的通念は、国民国家・国号社会・特定国民を自ずから内包している。
 これらの契機は、さらにまた、国民という「地」からゲシュタルトとして「図」化されてゆく。

 国民国家は唯一性によって特徴づけられている。この唯一性が図化されることによって現出するゲシュタルトを、ここでは「神性国家」と呼ぶことにしよう。
 対外戦争や失政において、国号社会は全体的に運命をともにする。すなわち、国号社会は共同性によって特徴づけられている。この共同性が図化されることによって現出するゲシュタルトは、明示的に「運命共同体」と呼ぶことにしよう。

 さて、特定国民においても、同様にゲシュタルトを現出させる図化が生じるだろうか。
 国民国家と国号社会は、それ自体が《国民》とは異なる存在として、既に半ば図化していた。しかし、特定国民はそれ自体が未だ国民であり、広義の《国民》との差異は分明でない。
 しかし、自らを根拠とするゲシュタルトの図化がなされないとしても、民族という層位の疎外的実態に媒介されて、特定国民はヨリ分凝的な偶像へと移行する。この点については、節を改めて詳説してみたい。

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(図5)

 第2節 レイシズムと「人種」

 階級社会と階級国家の下では、民族は抑圧する側と抑圧される側に分かれる。このような民族を我々は「種族」と呼ぶことにしていた。この場合、抑圧する側は優位種族として支配的地位を享受し、抑圧される側は劣位種族として苦渋を味わうことになる。すなわち、支配・被支配の関係が地位の優劣を種族間にもたらしている。先行しているのはあくまで権力関係であり、種族の属性規定はそこからの帰結である。
 だが、このような「権力関係」と「種族の優劣」とが原因と結果であるという関係性は時間の経過とともに見えにくくなってしまい、単なる相関関係、すなわち「支配する側の種族イコール優越的」及び「支配される側の種族イコール劣等的」という並立的な関係へと置き換えられてしまう。
 やがて、この相関関係から、その成立過程を反転させた因果関係の表象が生じる。「先天的に優れているから支配が許される」、「先天的に劣っているから支配されて当然なのだ」とする考えがそれである。こうした思考によって権力関係が正当化されるわけである。
 人間集団間において先天的な優劣が生じている場合、優劣の発生原因を文化や伝統に由来させることは論理的でない。先天的な差異は、生物学的な理由によって理解せざるを得ない。
 人間集団を生物学的に理解するとは、これを種として分類するということである。ここにおいて、種族は「人種」として把握されるようになる。
 このような「人種」は、もちろん自然科学的にはナンセンスとしか言いようのない誤謬である。種の異なる雌雄の間に生まれた仔は一代限りであり子孫を残せないが、「人種」の異なる男女間に生まれた子は親に劣ることのない繁殖力を保持している。
 誤謬であり臆見であるところの「人種」概念は、しかし、既存の権力関係を正当化するイデオロギーとして強力な効果を発揮する。このように民族を「人種」化し、劣等人種とされた民族に対する優位民族の「人種」差別を価値基準とする思想・行動が、いわゆるレイシズムの正体なのではないだろうか。

 第3節 特定国民の「人種」化 ー 〇〇国民から〇〇人へ ー

 レイシズムという価値基準によって、特定国民からのゲシュタルトの現出が可能になる。
 特定国民と呼ばれるのは、具体的には「日本国民」や「アメリカ国民」などである。この「〇〇国民」から現出するゲシュタルトは、個々の具体的なケースにおいて、何と呼ばれるであろうか。
 いわゆる「日本人」「アメリカ人」などの「〇〇人」という呼称が、それであろうと考える。
 そして、この呼称が「アジア人」「ヨーロッパ人」「アフリカ人」などという表現と同型であることも容易く見て取れるだろう。そして、このそれぞれが「黄色人種」「白人」「黒人」といった「人種」分類と呼応的であることも、ほんの少し注意を促すだけ理解できるだろう。
 このようにレイシズムによって特定国民から現出するゲシュタルトを、我々は「人種的国民」として把握することにしよう。

 第4節 排外主義的メンタリティの三類型

 改釈的通念からゲシュタルトとして現出した神性国家・運命共同体・人種的国民は、まとめて「分凝的偶像」とでも呼称しておこう。
 《国民》に由来するこのような分凝的偶像をめぐって、排外主義的なメンタリティが形成される。そして、その触媒となるのは疎外的実態を特徴づける主導的ファクターである。この辺りの事情を国家・社会・民族といった各層位ごとに見ていこう。


 国家の疎外的実態は階級国家である。この階級国家が国家として活動する際の、その主体は政府であり、議会であり、裁判所である。さらにこの三権から独立して中央銀行も存在する。立憲君主制を採用している場合は、王室(ないしは皇室)も付け加えられるだろう。実態としての国家を実際に運営しているのが、これらの「諸機関」である。
 このように階級国家の主導的ファクターとしての「諸機関」と改釈的通念としての「神性国家」が並存している場合、両者が結合して、あたかも諸機関が唯一無二の神性を帯びているかのように観念され得る。
 このようにして、(階級国家の)諸機関以外の存在は、これらの諸機関に己を滅却して奉仕すべきであるという思想が生じる。これが、いわゆる超国家主義(ウルトラナショナリズム)である。ただしここでは、この語に換えて「国家至上主義」という表現を用いたい。なんとなれば、超国家主義では「国家を超越しようとする主義」と誤読される可能性があると考えるからである。


 社会の疎外的実態は階級社会である。そして、階級社会の主導的ファクターは資本家階級・労働者階級といった「諸階級」である。
 異なった階級は利害において基本的に対立関係にある。しかし一方で、社会は運命共同体として認知されてもいる。このとき、階級間の対立は運命共同体という分凝的偶像によって隠蔽される。こうして、(異なった階級に属していたはずの)諸人格が(運命共同体の一員としては)同胞であるとの「同属感情」が生じる。


 民族の疎外的実態は種族であった。そして、それは、階級社会と階級国家の下で抑圧する側と抑圧される側に分かれた民族であった。このとき、むき出しの権力関係をカモフラージュするイデオロギーとして、各々の種族に「人種」というレッテルが貼られる。このレッテルは強力であり、種族の主導的ファクターとしての機能を果たす。
 「日本人」などの人種的国民を選別するのは、この「人種」である。例えば、本邦では、日本に帰化した元外国人力士がいつまでも「外人」扱いされたり、既に帰化して選挙で当選した国会議員の出自を開示させようとする提案がなされたりするが、これらも「日系でなければ異人種である」という判断基準が作用しているからであると考えられる。このように帰化人すら排除して擬似生物学的に(例えば「日本人」という)人種的国民をくくり出そうとする傾向は「優生思想」として把握できるだろう。

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(図6)


第四章 ナショナリズムの分断的側面
 分断的ナショナリズムの三類型

 統合的ナショナリズムが排外主義的メンタリティの影響を受けると、そこから今度は分断的ナショナリズムが派生すると考えられる。

  国家至上主義的忠誠心

 統合的ナショナリズムである「国家主義的忠誠心」からは、国家至上主義により熱量を高められた分断的ナショナリズムが派生する。これが「国家至上主義的熱誠」である。このとき「熱誠」が向かう対象は、国家の諸機関に過ぎない政府や皇室等である。

  同属感情的憂慮

 「連帯的念慮」からも、同属感情からの影響により、統合的ではないナショナリズムが派生する。これが「同属感情的憂慮」である。この「憂慮」は、非同属を排除する方向に作用すると考えられる。

  優生思想的自国民主義

 「家族感情的国民主義」からも、優生思想からの影響により、統合的ではないナショナリズムが派生する。これが「優生思想的自国民主義」である。この「自国民主義」は、人種を異にするとみなされた集団を、(「日本人」などの)自国民から分離・排斥する。

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(図7)


本稿のおわりに

統合的側面を有すると同時に、ナショナリズムは分断的側面をも有する。
そして、この「分断」を招来した大本の《国民》は、我々によれば「便宜的通念」であった。これは取りも直さず、「分断」という災厄が実体のない薄弱な淵源に端を発しているということである。
今日においてナショナリズムが自然発生的である以上、これを根絶することは不可能だろう。しかし、その拠って立つところを見極めることで、我々はその害悪をある程度でも解毒できるのではないだろうか。

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