無知と無恥
無知と無恥について考えてみたいと思います。
私たちは知らないことを、「知らない」とはっきり言うのは中々勇気が要るものです。
私もそうですが、知らないことが多々あって、これ知っていると言われて、・・・、「思わず無言に」、なんてことは多々あります。
若い頃は、何でも知っているようなふりをして、失敗したことも数えきれず、しかし、考えてみたら知らないことは恥じでも何でも無いわけです。
だって、経験していないわけですから、それを知っているという振りをすると当然のことながら上手くいかず失敗するわけです。
逆に、段々と歳を重ねると、知らないことが無限にあることに気づけるわけで、そこで二つの選択肢が生まれる。
一つの選択肢は、新しいことを覚えない、知らないことには関わらない。若しくは知ったかぶりして逃げる。と言った消極的な方法
もう一つの選択肢は、新しいことにチャレンジする、当然失敗するし、若いときのように上手くいかなくて恥をかく。といった、ちょっと恥ずかしいけれど、チャレンジすること
この二つに分かれるのかなぁと思うわけです。
何でもかんでも二つに分ける必要は無いと言われそうですが、論理的に考えると言うことは、時にはこのように極論で考える必要があると思うのです。
さて、無知を選んだ場合どうなるでしょうか。
無知ということを自覚しているわけですから、自ら調べる、もしくは、よく知っている人に聞くと言う選択肢を選ぶことになります。
自ら調べる、ある程度の素養があれば、自ら調べて応えに到達することが出来ると思います。
そこで大事なことは、問題としている内容をどこまで因数分解ではないですが、原因といえる、因数をどこまで分解できるかにかかっていると思うのです。
私は、それを「根」という言葉で表現しています。
物事の根本、と言う意味です。いわば、マスターキーのようなもので、問題の発生源と言えましょうか。
そのように自ら解決できれば良いのですが、そこまでたどり着けない場合もあります。
そんな時はどうするか、それはもう聞くしかないわけです。
時には、自分よりも若い人、それこそ自分の子供と同じくらいの人に聞く場合もあるかもしれないです。
そこで、本気で聞けるかどうかなんですよね。
恥を忍んで、「申し訳ないですが教えていただけますか」と頭を下げられる度量があるかどうか。
「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」という諺もあるように、聞くのは決して恥ずかしいことではないです。
もっと恥ずかしいのは、恥だとして何も聞かないことです。
結局、聞くのが恥ずかしいとか、いい歳して若い者に話なんか聞けるかとして、前者の判断をしてしまうと知る機会は失われてしまいます。
結局、一瞬の、無知を恥じて、無恥を貫くことになります。
世の中は常に変化しています。
そうした流れに背を向けて、無恥を貫けばどうなるでしょうか。
最後まで言わなくても判りますよね。
無知は恥ではない、無知を恥だと思うことこそが無恥であるということ。
我々のような年代だけに限らず、若い人でもそのような傾向はないでしょうか。
SNSで脊髄反射的にブサヨとか、」ネトウヨとお互いに批判し合っている人たちも、実は無恥な人なのかもしれないわけです。
もう一度言いますね、
「無知は恥ではない、無知を恥だと思うことこそが無恥である」
と
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