<第9巻>「動物のお医者さん」に現役獣医師が全話マジレスする話
現役の獣医師である僕が、佐々木倫子さん著新装版「動物のお医者さん」に一話づつ(丁寧に)レビューする記事です。
第9巻では、ハムテルくんたちがついに卒業、晴れて獣医師になります。
この巻はハムテルくん(主役)の影はだいぶ薄くて、二階堂くんがメインの話が多いように思う。
(第1巻の記事はこちら)
<第81話>
チョビ、芸能人と撮影に挑戦する話。
慣れない環境だし、共演する子役は不機嫌だし、で散々な経験をする。
今作では珍しく子どもが登場するけど、そういえば「動物のお医者さん」では二階堂くんの弟妹を除いては子どもはほとんど登場しない。
チョビは知るよしもなかったけど、今回麻衣子ちゃんとともに撮影したポスターは「動物に洗ったら手を洗おう」との啓発ポスターだった。
なぜ動物に触ったら手を洗わなくてはいけないかというと、動物から人に感染する伝染病(動物由来感染症)を予防するためだ。
この手の啓発ポスターは現在でも作られていて、厚生労働省なんかは毎年その趣旨のポスターとかリーフレットを作っている。どこからお金がでているのだろうか。
獣医師目線からしても、手洗いは、感染症予防の基本だ。
数年前のコロナ禍真っ盛りのころ、市中に「手を消毒しよう」という雰囲気が溢れていたけど、正直、消毒よりも手洗いのほうが重要だ。
「手洗いだけじゃウイルスを除去できないから」という理屈を目にしたけど、反対に手洗いしないで消毒だけしても、消毒液の効果が発揮されていないことだある。
まず、水で汚れと病原体を洗い流すことのほうが重要なのである。
<第82話>
二階堂くんが卒論のために猫を集める話。
漆原教授は「30匹はほしい」とアドバイスしているけど、一応、これは統計学的に正しい判断だ。
一般にサンプル数(n数)が30あれば、標本の分布は正規分布をとると言われるので、これだけあれば調査として正しい分析ができると思われるからだ。
バリバリの研究者であるはずの菱沼さんは「もっと少なくても許されるんじゃない?」なんて言ってるけど、たぶん、許されないと思う。
さて、二階堂くんの卒論テーマは「猫の体表に存在する真菌の分離と同定」である(簡単に言うと、猫の皮膚や毛に住んでいる真菌(カビ)の種類を調べる、ということ)。
多数の日和見菌もいると思うけど、臨床的に重要なのは、皮膚糸状菌症をおこすMicrosporum属菌や Epidermophyton 属などだろう。
これらの培養は(二階堂くんがやっているように)平板寒天培地による培養で、うまく増殖すれば(二階堂くんがやっているように)それこそモサモサとシャーレに増殖する。
なお、皮膚糸状菌症は人にうつるので、それこそ前話のように、みんなよく手を洗って欲しい。
<第83話>
菱沼さんと男子高校生の(珍しい)ラブロマンス回。
菱沼さんが、彼女を慕う男子高校生に「歌ってみて」と無茶振りした「虹と雪のバラード」は、作中にあるように1972年の札幌冬季オリンピックのテーマ曲である。
札幌市民の皆さんには馴染み深い曲のようで、最近でも2030年オリンピックを再び札幌に招致する活動の一環で、昨年末ぐらいまで札幌駅なんかでBGMにされていた(その後、招致断念)。
今話では男子高校生だけじゃなくて、菱沼さんは牛にも追いかけられていたけど、この牛には、現在では全ての牛の耳に装着されている個体識別番号を書いた耳標が、装着されていない。
牛の個体識別制度が始まったのは2004年である。
今話は1992年(アルベールビルオリンピックが開催、って言ってるし)の話だから、まだ個体識別制度が始まっていなかった。
この耳標は、(一部の例外を除いて)出生したら全ての牛に取り付けなくてはいけない(構造上、取り外しできない)。
仮にマンガで過去の時代を描くならば、描かなければいいのだけど、実写ドラマとなれば大変である。
NHKの朝ドラ「なつぞら」の1940年代の十勝地方の牧場が舞台だったシーンでは、牛の耳に耳標がついていなかった。
放送当時、実写なのに何故だろう、と不思議に思っていたら、CGで耳標を一つ一つ消していったそうだ(黒い布で隠した、とも聞いたことがある)。
このドラマの後半は1960年代のアニメーションの制作現場が舞台だったけど、その頃の手書きで1枚1枚セル画を描いている作業よりも、現代なのにCGで耳標をコツコツ消す作業のほうが大変そうである。
<第84話>
ふたたび犬ぞりチームに参加するハムテルくんたち。
チョビの犬ぞり仲間であるシーザーとジャックは、ご飯を目の前にして逃走してしまう。
作中で「ハスキーは帰巣本能が弱い」と言われているけど、これは実際そうらしくて、もともと遊牧民に飼われていた犬種だからそもそも家への執着がないから、だとか、遠くまで走る犬だから気がついたら勝ってくることができない、とか言われている。
あと、帰巣本能だけじゃなくて、ハムテルくんたちは、「ドブに落ちやすい犬種なんかじゃないか」と疑っているけど、今年の5月に、逃走したハスキーが用水路に落ちて抜けられなくなった、なんてニュースがあった。
ドブに落ちやすいも、ひょっとしたら、そうなのかもしれない(エビデンスはないけど)
<第85話>
犬ぞりレース本番回。
会場に(なぜか)出場している漆原教授チームとの死闘(?)が繰り広げられる。
ソリ犬種100%で厳選したハムテルチームと違い、漆原教授はその地位を利用して(?)患者さんから多種多様な大型犬を徴用して参加している。
連盟の公式ルールを調べてみると「犬はその種類を問わない」ってちゃんと描いてあるから、ソリ犬種じゃなくてもまったく問題ない。
実際に日本各地の大会では、ポメラニアンとかパグとかそりゃもう多種多様な犬が参加しているようだ。
ちなみに、ウエイトプル(重量引き)の公式ルールには、作中にあるような「食べものを用いてはいけない」という露骨なルールはかかれていなかった(使っていい、とも読めないけど)。
これならば漆原教授も参加できる。
いっそ食べ物を使うこと前提で、どの食べ物が犬をいちばん引きつけるか、なルールの大会があっても楽しいかもしれない。
<第86話>
ヒヨちゃんに挑戦しながら国家試験の勉強に励む二階堂くんの話。
二階堂くんが読めなかった自分の講義ノートだけど、解読すると、これはブルセラ症の試験管凝集反応による診断法の手順を表したものだと思う。
この診断法は試験管をたくさん使うし、さらに試薬のなかにフェノールが含まれているから下水に排水することができなくて、準備も後片付けも面倒だったりするけど、結果判定が楽しいので、個人的には好きな診断法である。
最近は、より簡単なELISA法のキット開発されているので、この診断法を使うこともだいぶ減っているはずである。
あと、ノートの中に「牛の前足に注意」とあるけれども、これは検査のために牛の前方に回り込んで頸静脈(首)から採血するときに前足で蹴られないように、という注意のはずだ。
二階堂くんはヒヨちゃんどころか、実は牛にも負けていなかっただろうか。
<第87話>◀︎今回のイチオシ
いよいよ国家試験に臨むハムテルくんたち。
必死で覚えた語呂合わせを武器に国試に立ち向かうのであった。
作中屈指の名セリフである「ぎゅうぎゅうの口の狂った短気のデブがけつようぴに遊びに出んとアフリカのスーダンにこられペットにひなをもらった」が登場するのもこの話である。
作中でも明かされるように、これは家畜伝染病予防法で定められた法定伝染病(家畜伝染病)の覚え方である。
僕が国家試験を受ける頃には法律が改正されて病名が変わっていたけど、自力でバージョンアップさせて使わせてもらった。
これに限らず、僕も作中で出てきた語呂合わせは実際に使った。
また作中では解説がなくて暗号状態だったものを、自力で解読したものもある。
たとえば、「右手に馬券、左手に牛丼」は、動物の背中の左右どちらかにある奇静脈という血管の動物ごとの位置を示したものだ。
また、「ギャンブルもちょっと好き」というのは、細菌のうち偏性もしくは微好気性菌に分類される菌の覚え方だと思う。
その中でも、現在にいたるまで解読できていないのが「みたくない こざるのおしりも まっかっか」である。
僕はこの語呂合わせの解読にかれこれ四半世紀悩んでいることになる。
だれかこれの意味を解読できている人は、本当に教えて欲しい。
<第88話>
国家試験からあっという間に卒業式である。
学校を離れた清原くんは、平九郎を置き去りにしてしまう。
作中では「卒業生の8割が道外に就職する」とあるように、清原くんも道外に就職したようだ。
そもそもの傾向として、獣医学部の学生は地元以外の大学に進む割合が非常に高い。
北海道大学の学生の内訳は、大学全体では道外出身者は6割強だが、獣医学部では9割に達する。引用したのはH28年のデータだけど、現在でもほとんど変わっていないと思う。
なお、この傾向は北海道大学に限らない。
というのも、獣医学部を設置している大学の数が少ないからだ。
全国で17校のみであり、それも北海道と関東と九州に集中している。
比較になるかわからないけど、人の医者になるための医学部が全国に82校あることを考えれば、かなり偏っている。
ちなみに僕自身のことをいうと、出身地は愛知県だが、(以前も書いたように)大学は青森にあった。
実はこの大学の所在地は曲者で、獣医学部は青森にあるけど、1年目の教養課程は神奈川県にある別のキャンパスで他の学部の1年生と合同でうける。さらにややこしいことに、メインキャンパスは東京であって、そこが大学としての所在地になっている。
そのため、多くの受験生は代ゼミとか駿台とかの模擬試験を受けると思うのだけど、そこで志望大学を選択するときに、まず「東京」の欄から大学を選択すことになる。
だから受験生のなかには「この大学は関東地方にある」と思い込んでいる人がいる。そして、そのままの認識で入学して、最初の入学ガイダンスの場で初めて「2年目からは青森に引っ越す」ことを知る学生が毎年1名はいる(彼らがその後、どうなったかは知らない)。
いくら全国の大学に散らばる傾向があるといっても、東京だと思ったら青森、というのはショックが大きいようだ。
<第89話>
チョビが初めて散歩に出かけたころの思い出話。
獣医学部に入る前、といっているし、二人の服装からも考えて生後7〜8ヶ月齢くらいの話でる。
この話に登場するラジカセ犬パフは、子どもの頃からラジカセに繋がれて育ったため、成長してからも「これは自分では動かせない」と思い込んでいる。
この教育、実は散歩でもとても大切なのである。
リードに繋がれての散歩に慣れていない犬は、ついつい飼い主を無視して好きなところに走り出してしまう。このとき犬に合わせて引っ張られてしまうと、「人間は引っ張れば動く」ということを犬が学習してしまう。
子どもの頃はともかく、成長してからこれをやられると、制御できない犬になってしまう。
ちょうど↓の動画で紹介されているけど、犬がリードを引っ張ろうとしたら、人間ほうが力が勝っているうちに、それを阻止することが重要だ。
二階堂くんは「散歩のときに重要なこと」をチョビに諭そうとしているけど、人間にとって大事なことは「犬を自分に従わせる」ことなのである。
<第90話>
動物園に実習にいくハムテルくんたち。
ゴマフアザラシのデブリン食べさせるために、ミルク入りホッケを考案するという稀有な体験をする。
なお、北海道ではシマホッケとマホッケの2種類のホッケが獲れる。
シマホッケのほうが脂が乗ってる、とされるけど、デブリンが食べているのは体の模様からしてマホッケのようだ。
ハムテルくんたちが実習にいったA山動物園というのは、旭川にある旭山動物園だと思われる。
この動物園は、動物を野生に近い状態で見せる「行動展示」を、日本で最初期に導入した動物園である。
この話の12年後くらいに、アザラシが垂直に泳いでいる姿が見える円錐型水槽を備えたあざらし館がオープンして話題になった。
これを導入したのは当時の園長で、獣医師でもある坂東元先生である。
著作を読むと、動物の命と動物園としてのエンターテイメント性の両方に本気で取り組んでおられたことがわかる。
ハムテルくんたちは水中のアザラシたちに翻弄されていたけど、もう少し後に実習にいっていれば、違ったアザラシの姿が見れたかもしれない。
それでも、ミルク入りホッケを食べさせることに代わりなないだろうけど。
以上です。
次回に続く。