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人に期待することされること。

「他人に期待するな」ってよく言うけど、「してる」のも無意識で「されてる」ことにも気づかないことが多い。
人に期待したり理想を押し付けている時、自分や本人は本当に無意識で「やるべきこと」だと思っている。できるできないに関わらず。
個人的には、自分ができないこと・できることを物差しにしてはいるけど、ほとんどの人も結局自分の尺で測ってるんじゃないかと思う。判断基準がそれしかないから。
とはいえ、自分でもできているのか曖昧なことを期待値として内心で評価したりもするから勝手だよね。

私は期待されるのが本当に嫌いで、プレッシャーだと感じたら「大したことがない」って言われても「私には無理」「やりたくない」「できなかったらごめんなさい」って言ってしまう。本音を言えばやりたくない。
自分は人よりできないから、先陣に立つより手伝いに徹したい。みたいな考えが昔も今もある。

決して良くはないとされる考え方で、でもそれでも「支えてる」って実感が私のその立ち位置で居続ける支えになっていたと思う。

それが嫌だった訳じゃないし、今も別に嫌いじゃない。そうやって自分の位置を確立できていたのだからいいじゃないかと思っている。
でも最近、そういう「他人」ありきの考えと生き方がしんどいなって思った。
これまでも度々そういうことはあった気がする。

かつて仕事で、「コミュニケーションで一番必要なのは共感だ」と教わったことがある。
私はよく「わかる」という言葉を使うし、よく他人の言葉や気持ちに共感を覚えている。
その『共感』自体が嘘だったことや、思ってもいないことにしていたというつもりは一切ない。
けれど、それをコミュニケーションの手段にしていなかったか?と言われると、そうだったかもしれない。と感じる。
私は人から共感してもらえると嬉しいし、気持ちがわかると言ってもらえたら嬉しい。自分と同じ気持ちの人を見ると嬉しいし、「自分だけじゃないんだ」と「一人じゃないんだ」と勇気づけられる。
それ自体は悪いことじゃないと思うし、やめようと思っている訳でもやめたいと思っているわけでもない。
けど、ふと最近になって、自分に対する人からの評価はその共感力だけなのではないだろうかと感じることがある。人から共感を求めることを『期待』されてるんじゃないかと思う。

被害妄想だとも思う。
でも振り返ってみたら私には本当にそれしか人と話す話題がない。自分だって、何かを言う時は誰かの理解が欲しい時だ。今だってそうじゃないとは言えない。ハートが付くと嬉しいし、それを勝手に「共感してくれた」って思うことで慰められる。違ったとしても。
大抵の人は自分の話を聞いてもらいたいと思っているし、それに共感してもらえたら嬉しいものだ。それは多分、確認が取れるわけではないが、私だけじゃないと思う。

でも、「特定」の誰かに理解してもらったり、共感してもらったりするのを『期待』するのを、もうやめたいと思う。
私自身が、人からそういう『期待』をされるのが嫌だからだ。

嫌なことを言わない人間になりたいと思う。
今までも、多分これからだって、陰口は言うし、悪口も言う。愚痴はとめどなく出てくるし、好きじゃないことも多いし嫌いなことの方が多い。
これらがなくなることなんてないと思う。
けど、それを人にぶつけて共感を得たいと思うのを、減らしていきたいと思
う。
話して、吐き出したから完全に「すっきり」する。なんてことはないと気づいたからだ。
共感してもらって、その時だけ気持ちよくなってスッキリした気持ちになっても、その気持ちはぶり返し続ける。元を絶たない限りなくなったりしないし、絶ったところで同じようなことは降って沸いてくる。
それを我慢するつもりはない。吐き出すと思う。
でも、誰かに言って共感をもらうのは他人を便器やゴミ箱にしているようなものなんじゃないかと思うのだ。

私は他人のゴミ箱じゃないし、他人をゴミ箱にしていいわけでもない。
散々人に聞いてもらってきた。身から出た錆なのはわかっている。
そのうえで、もううんざりだ。

聞いて、楽になるのなら聞くよって思っていた。けど、私はそんなに人の話を聞くのがそもそも好きではない。
私じゃないとダメなら聞くとも思っているけど、自分でどうにかできないことを他人がどうにかできるわけではない。
つまり私に言われてもできることはない。私も、自分でできないことを他人に頼んでもできるわけじゃないのだ。

自分の身の丈に合わない無理な手助けをするのをやめたい。
共感されなくても、理解されなくても、自分の考えはこれなんだって言えるようになりたい。


人の毒を好んで食らうのは今年で終わりにします。
もう聞きたくない。避ける努力をしたい。

という自分の決意表明。

よくわからないんですけど美味しいもの食べます!!