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正誤感

正誤感という言葉はない
ただ自分の行いが正しいものだったのか誤ったものだったのかを考えるきっかけというかそのモヤモヤを表した造語と考えていいだろう

こんな話がある

見た目のいかつい十代くらいの学生が堂々と電車のシルバーシートに座っていた
その前にはお年寄りがいた
席を譲ったらいいのにと思った
しかしよく見たら学生のカバンにはヘルプマークがついていた
障害を持っているのかとわかりそれなら座ってても良いかと思った
でも話を聞くとその学生は若いうちからタバコを吸って肺を悪くしたらしい
だとしたらそれは自業自得なんだから席を譲ったらいいのにと思った
でもさらに話を聞いたら先輩に無理やり吸わされていじめを受けていたとのことだった
なら自業自得ではないかと思い直して座ってていいと思った

出典不明

この話のようにどこで区切るかによって正誤というものは変わる
どこで切っても正しいのだろうし誤っているのだろう
つまりはどこで区切るかということになる
人の意見はたくさんあって十人十色の考え方がある
だから民主主義では多数決という分かりやすい方法を採用している

自分の許容できる範囲が正しい範囲ともいえる
意見はばらばらであって当然である
今得ている自分の知識や情報に大きく左右されるから
全く同じように知識や情報さらには経験などが一致する人はいない
だから自分の持っている武器だけが頼りで判断基準になる

正誤感に話を戻す
つまりは「1+1=2」のように簡潔で明瞭なものでない限り全くもって正誤というものは当てにならないと言っていい
ただし例外もある

「死にたいくらい辛いんです」という人に対して「じゃあ死にましょう」というのは間違いだ
「モラル」と「デリカシー」といった「一般常識」は身につけておきたい

個人の持っている「知識」や「情報」「経験」に合わせて「モラル」と「デリカシー」「一般常識」などが加味されて答えを出す
その時点で正誤でいえば「正しい」といえる
なぜならば浅はかな考えではなく上記の判断材料をフルに生かして出した答えだからだ

そして次の問題はそれが相手にとっての正誤の判断になる
しかしこれは考える必要はないと思っている
全力で出した答えに対して相手が拒絶したとしてもそれは答えた人の価値観であり正しいと思ったことなのでただ単に合致しなかったというだけの問題である
人格否定をされているのとは違う
こんどはその相手の「知識」「経験」「情報」「モラル」「デリカシー」「一般常識」に当てはめて考える番だからもう後はこちらとしては見守るだけでいい

「変なこと言っちゃったかな?」などと考える必要はない
人は大体変な人なのだから変なことを言っているに違いない
その相手が変なことを基にどういう判断を下すか待っていればいい

そして最終的に行うことは「正しかった」というふうに思い込みでもなんでもいいからそう判断すること
そもそも正誤を判断するジャッジメントはこの世に存在しない
幻想の審判に怯える必要などどこにもないのだ
後で訂正もきく
正誤感をもったら誤を消して正感にしてしまえばいい
判断するのは自分自身だ
自分で自分のことを厳しくする必要性はどこにもない
失敗したら「失敗という方法を知れた」という正解にすればいいだけの話だ

だから俺の正誤感は「正しくする」というのが答えになる
俺自身も弱いから「あの時ああ言っておけばよかった」とか「ミスったなあ」と思うことは多々ある
でもそれがあるから今の俺があるわけだし悪いものでもないのかなとも思う

このnoteも「正しい答えである」というふうに自分に言い聞かせてペンを置かせてもらう

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