第1希望ではなかった大学を卒業しました

はじめに


 おはこんばんにちは。皆様いかがお過ごしでしょうか。私は元気です。大学卒業の折、一つの節目として記事を書いていましたがちょこちょこあーでもないこーでもないと加筆修正していたところ、気がつけば2年以上が経とうとしていました。このままではいつまで経っても出すことが出来ないので、ほどほどで抑えて一度出すことにしました。粗の多さはお見逃し下さい。では。

 

 大学に入学したなあと思ったのもつかの間、やれコロナだ、やれゼミ選択だ、やれ就活だのしている間に気がつけば卒論の提出も終わり、春と二人三脚で卒業の足音が聞こえてくる時期になっており、感慨を覚えるかと思えばそうでもないな、と言う状態になっています。

 今は大学生活に於いてやるべきこと全てが終わり比較的暇を持て余しています。そんな暇な時期だからこそこの記録に残す価値も無いような四年間を少し振り返って書き綴っておこうかとおもむろに大学一年生の頃に生協で買ったパソコンを開き、バコバコ文字を打っている訳なのです。

 何を書こうか考えることも無く、相変わらずの見切り発進でこのノートを書き始めましたが特に名案も思いつかないので一年生から思い出に残ったことを順に綴っていこうかと思います。趣味などについては別で詳しく書いてみようかなと思っているので内容は非常に薄い物になるかと思います。

大学0年生

 大学入学におきましてその入学試験のことを語らないことなど出来るはずもありません。味わうはずであった晴れやかな青春を犠牲にして高校三年間必死に努力を重ねましたが、悲しいかな、猿が少し賢くなった程度の頭では自身が目指していた第一希望の大学が求める学力には遠く及ばず、後期に受けた大学へと入学することになりました。高校受験は比較的成功し、前期に受けた大学を三年間第一希望としていたこのときの自分としては人生最大の挫折でありました。小学生の頃ですらほとんど泣いた経験はありませんでしたが合格発表の表に自身の受験番号が無かったことを何度も確認して受け入れたときには自然と目から水が流れました。文字通り泣くほど悔しかったのだと思います。そしてメンタルぐっちゃぐちゃの状態で後期に第一希望ではない大学のこれまた第一希望ではない学部を受験し、茫然自失のまま合格を勝ち得ました。

大学1年生

 晴れて大学生になるための切符を手にし、その切符を使って望まないナリに納得して改札を抜けた18歳の青き若き自分君ではありますがここで悲劇が起こります。

知り合いがいない。

 いちおう地元から地元への進学ではあるので通う予定の大学に同じ高校から行く同級生はいました。いるはずでした。しかし高校時代は部活と勉強に明け暮れ、ろくに人間関係にリソースを割いていなかった上に当時ツイッターやインスタグラムなどのナウいヤングなSNSをやっていなかった私の交友関係が広いはずも無く、もちろん誰がどこに進学するなどと言った情報はクラスメイトを含めて誰も知りません。詰みです。何もしないことは罪なのです。そんなこんなで入学式を迎えました。もちろん一人で。

入学式

 知り合いがいないので特に緊張することも無く学外の会場に着き、案内の毒キノコのような頭をした大学生に従ってホールの上段一番前の席に座りました。起立の合図と共に席を立ったとき、転落防止の柵が思っていたよりも低く、誰か落ちるんじゃ無いかと心配になった記憶があります。落ちた自分が思うことではない。そして方言が強すぎて何を言っているのか分からない名物市長の演説が終わり、今後聞くことの無い校歌を聞いた後に会場から大学に移動するということでクラス単位でキノコ頭に案内をされました。このとき、自分を呼ぶ声が聞こえました。ついにストレスで幻聴が聞こえるようになったかと思い、入学早々ヤバ人間のレッテルを貼られたくなかった私は無視を決め込みました。だが右肩から振動を感じます。どうやら幻聴では無いということで振り返ってみるとそこには高校のクラスメイトが存在しました。そう、彼もまた自分と同じ大学に入学し、そして同じクラスであったのです。彼は高校当時、クラスでも人気者、いわゆる「陽キャ」と言うやつであり、僕は座席番号が二年間前後であった彼に対し、心の底からの苦手意識を持っていました。しかし知り合いは知り合い。しかも非常に役に立ちそうなと言う部分ではこれ以上無く適任な知り合い。私は彼と仲良くなることを決めた。そして行きのバスの中で彼にインスタグラムのアカウントの作り方を教えてもらい彼と交換しました。ついでに横にいた頭がわかめになっている男とも交換した。彼とはついぞ話すことはありませんでした。そうして人とつながる手段を手に入れた私は手当たり次第にクラスメイトとインスタグラムを交換した。化粧をしたキラキラ女子と交換するのはちょっと緊張したが頑張った。偉い。とても共学とは思えない。
 こうして入学式は人間が住む世界とのつながりを得て無事に終幕した。

新歓

 いまはコロナウイルス感染症対策で出来ていないようであるが私が入学した年には「新歓」と呼称されるものが存在した。上級生が下級生を「おもてなし」するのである。新歓に関しては衝撃的すぎてあまり記憶が無いのだが、上級生がアホすぎて大学を辞めて浪人しようかと思ったこと、バスで隣に座った子が自分はバイだ!といきなり告白をしてきたこと、その後四年間仲良くすることになる友人と呼べるものができたこと、バスで後ろの席に座っていたおかめ納豆を少し可愛らしくしたような顔をした女子が「社会人の彼氏が~」と話していたのを覚えているので記しておこうと思う。わずか2週間の出来事ではあったが世界は広いなと思った。この新歓の間に写真部、水泳部、大学祭実行委員会の三つの組織に所属することになった。大学祭実行委員会はアホな上級生のお手本のようなのが上役になったので3週間でやめた。Tシャツ代で-2000円になった。


初めてのアルバイト

 そんなこんなでヌルッと始まった大学生活であるがここで私は再び衝撃を受ける。

友人が働いていた。

 そう、学生なのに働いていたのである。学生の本分とは学業である。そう対して賢くなくても学業に四年間打ち込み、その学びを生かして今後の人生、ひいては社会に役立てていくのが学生である。当時そう頑なに信じていた自分にとってアルバイトは家庭などにやむを得ない事情を抱えていた場合に限って許される特権であると考えていたのだ。今でも当時友人とした会話を昨日のことのように思い出すことができる。

友 「バイトなにしてる~?」
自分「バイト……? 学校に許可取ってないからしてない」
友 「許可???」

 今思えばおそらく強烈なお坊ちゃんであり、このようにしっかりと非常識をぶちかました自分であったがこのあといろいろあって自分がかつて通っていた塾の系列の校舎で働くことになる。しかしここが良くなかった。
 今はどうか知らないが着替えの時間の時給は出ない。昇給は無く、とにかく規律だけが厳しかった。たいして時給が高いわけでも無くただただ厳しいのだ。有り体に言えばブラック企業である。思えば純粋に上司との折り合いが悪かっただけなのかも知れないが、とにかく居心地が悪く、空気が嫌いであった。当然行きたくなくなりシフトも減らしていき、二ヶ月で解雇を言い渡された。そのときはことの重大さを理解していなかったが今ならわかる。多分私は「害悪バイト」だった。シフトにたくさん入るわけでも無く、来たらきたでひたすら仕事が貰えるのを待っている。仕事を貰っても急いでそれをこなすわけでも無くマイペースに完璧である事にこだわってひたすら時間をかけて行っている。今の自分が上司だったら蹴り飛ばしている。なのでこの場を借りてお詫びをしたいと思う。クソ生意気ですみませんでした。その後にスーパーのレジ打ちバイトに採用された。おばちゃんたちの派閥競争に巻き込まれたこと以外は割と天職だったように思う。基本的に人間が作る組織というものが嫌いなのだということがこのとき理解できた。

大学2年生

大学2年生は「COVID-19」が世界で爆発的な流行を起こしたことに伴い、大学の前期開講が6月になったのをよく覚えている。この間何をしていたかといえば特に何もしていなかったような気がする。強いて言うなら漫画を読みあさっていた。外に出られなくてストレスと言うことも無く、友人に漫画のおすすめを聞いては有り余ったバイト代を使ってブックオフでまとめ買いし、感想を言ってはまた聞くと言うことを繰り返していた。活動的なニートである。大学が始まってからもオンライン講義ばかりで家から出るのが趣味の筋トレをするためにジムに行くときとバイトの時だけという生活を夏までしていた。そこまで不満は無かった。トルコ語をこのとき習得した。
後期になり、コロナで活動が止まっていた水泳部が活動を再開するのと同時に自身が幹部をやることになったため、もう一つ所属していた写真部を休部した。
そして写真部を休部したこの頃、急激に写真を撮るという行為に対する欲求が高まり、人生で初めて一眼レフを購入した。1万円を超える買い物をしたのは自動車学校以来だったので手が震えた。このあと「カメラ沼」へと沈んでいくことになるのだがそれはまた別のお話である。そしてカメラを購入し、オンライン講義によって肉体が解放された私は「一人日帰り旅行」に目覚めた。
 カメラを片手に電車に乗ってどこまでも行くのだ。学生が金を持つとろくなことをしないと言われるが、その典型だったように思う。当時、性懲りもなく塾バイトを始め(これは今も社長とたまにご飯に行く仲なので始めて良かったと思っている)、授業時間にGoogleマップで人がいなさそうなニッチ観光地を見つけては旅程を組んでいた。車の運転に対して苦手意識があったので基本的に公共交通機関を使って移動していたが、どうしても無理そうな時は数少ない友人を言いくるめて足に使っていた(すまん)。そんな感じでお一人様を存分に楽しんでいた私だったがここで一つ、自分に対して少し心配な事があった。「恋人」という存在である。個人的にはいてもいなくてもどうでもよかったのだが、周りの人間がそれはもうそれしかやることないんかというくらいバンバンくっつき、パンパンしているものなのでそれはさぞいいものに違いないのだろうな、と当時の私は思っていた。なのでできたらそういう関係の人間が欲しいなーとは思いつつ、インセンティブが本能しか無いので特に気にもしていなかったのだが、年明け直後くらいに色々あってなんかそういう関係の人間ができた。まあそんなにいいものでもなかったのでこの辺は割愛する。



大学3年生

 そういう関係の人間と思ってたんと違ったわ!じゃあな!と爆速でお別れされ、また新たな人間とそういう関係になった。モテ期である。こいつにもすぐ振られたので割愛する。それよりも書きたいことがあるので。

 3年生は基本的に勉強と就活をしていた。周りには公務員専願と伝えていたが、地味に民間もそれなりにしていた(みんな嘘ついててスマン)。前述した人間関係の維持、バイト、部活、就活でキャパが回らなくなり、普通に時間が足りなかったのでほな睡眠時間を削るか!と睡眠時間を削った。4ヶ月程度の期間、0〜2時間睡眠で生きていた結果、倒れた。この間に人間と別れたのがメンタル的に頑張る理由を失うことに繋がり、踏ん張れなくなったのもあると思う。全てを完璧に熟そうとするには自分はあまりにも未熟であるとこのときに思い知らされた。なのでここで一気に方針転換をし、選択と集中をすることにした。まず人間関係。これについては諦める。そんなに器用な方ではないので。次にバイト。お金に困ってはいないので収支が釣り合い、なおかつクビにならない程度にする。次に部活。幹部を終え、正直得るものはなにもないので気晴らし程度にやる。最後に根幹となる就活。これは希望を自分のキャパとすり合わせたうえで、選択と集中を行い、そこにフルでリソースを注ぎ込む。こうすることにより最短距離で駆け抜けることにした。また勉強時間も一日5時間までと制限をかけることで集中を保つ事ができるようにした。親には一年くらいふらふらしていても良いと言われたが、フラフラしている自分を自分が許せないと思ったので一年で確実に決めることができるよう立ち回ることにした。大学3年生の夏から抑うつ状態の診断は受けていたが、抗うつ薬による薬物治療を断固拒否し、漢方と睡眠薬による対症療法とカウンセラーによる心理療法でなんとか正気を保って生きていた。


大学4年生

 夏までは正直勉強と就活しかしていなかったのであまり書くことがない。結論から言うと希望していたところは全て合格し、第一希望に入ることができた。夏休みは反動でとにかくボーっとしたり、友人と旅行に行ったりしていたら終わっていた。まだコロナでわたわたしていた時期だったのもあり、外国には行かず(興味n)、ひたすら国内旅行をしていた。目標がなかったので腑抜けた面をしながら毎日を過ごしていたと思う。このとき少し鬱が改善し、睡眠薬も減ってきた。就活が終わってから、余りにも暇だったのでコネ作り兼暇潰しに就活支援団体なるものに所属をしていたのだが、あまり足しにはならなかったなと思う。また、週一ペースで一人旅をしていた。熱海にて、一人で食べた塩ラーメンがとても美味しかった。
 また猫カフェにも通い詰めていた。ただなにもせず猫様を膝に乗せて座っているだけなのだが、この時間が最高に愛おしかった。
 また最後の最後にこれまでの失敗をもとにして慎重に慎重を重ねた結果、人間関係の構築に成功した。彼女とは末永く続くと良いなと思っている。

終わりに

 私の人生は残念なことに未だ続いているが、大学生活はここで一旦終了である。就活してからパワハラにあったり、鬱が再燃して色々あったりと人生は平坦なものではないということを日々思い知らされている。ただ一つ言えるのは、今時点では後悔と忸怩たる思いが多分に含まれていたとしてもあとから思い返すとまあそんなときもあったな、と思い返せる日々がいつか来るはずである。これを自分に対しても向けながら締めくくりたい。

ではまた。