自分らしく生きるとはどういうことか?絶望の裏にある希望について
自分らしく生きていきたい。
社会人になった次女がそんなことを言ったことがあります。
そう言われれば、若い人から「自分らしく」という言葉を聞くことが多いような気がします。特に、学生さんと話をする機会があると、「自分らしい生活」「自分らしい仕事」というワードが出てきます。
ところで、「自分らしい」とはどういうことなのでしょうか?
そもそも、私は自分らしいのか、自分らしくないのか。
確実なことは、今の私は若い頃に理想としていた生活とはまったく違うということです。しかし、最近思うのは、私が私であるがゆえに現在があるので、自分らしいかどうかを考えるのではなく、「これが私である」と認めるしかありません。
今とは違う未来を想像して、それに向かって生きてきましたが、ちょっと違ったところに着いてしまいました。それが私です。正直、もっとカッコよく生きているはずでした。なんだか、締りのない生活をしてしまっています。
しかし、今がゴールではなくて、今も理想があるので、そこに向かって進んで行くだけです。
できることとできないことの選択肢
子どもの頃はプロ野球選手になって、活躍をして大金を稼ぎたいと思っていました。中学くらいで無理かと思ったので、次に学校の先生になって、生徒に希望を伝える仕事をしようと思いました。この目標は大学4年まで持っていて、教育学部で教員免許は取得しました。
ところが、当時はバブルで、派手でカッコよく見えた広告代理店でクリエイターの仕事をしたいと思ってしまったのです。教員採用試験は補欠だったので、教師の道もあったのですが、広告代理店への就職を優先しました。しかし、入りたかった企業には入れず、不本意ながら印刷会社に就職をします。クリエイティブな部署に配属されずに、営業をすることになりました。仕事はがんばったつもりですが、全く成果を出せずに、お荷物のような社員でした。
ここは自分の居場所ではないと思って3年で辞めました。その後も、何度も転職をしましたが、どこの会社でもうだつが上がらないままでした。
30歳くらいまで、「これは自分らしくない」と毎日考えていました。このまま年をとっていくのか、どこかで逆転ができるのか。きっと逆転の機会は来るはずだと信じていましたが、それがいつなのか、どうすれば機会が来るのかは全くわかりません。この時の私は、自分にできるはず(だと思っていた)ことができない焦燥感に駆られていました。
結婚もして、二人の娘も生まれていましたが、生活自体も荒れていたと思います。
浮上のきっかけは転職でした。なぜか以前に勤めていた会社の上司に誘われて、ある会社に入れてもらいました。ここでも仕事は営業でしたが、それまでの会社とは社風もスタイルもまったく違っていました。営業でも基本はルート営業なので、新規開拓の必要がありません。電話をして断られるという仕事がないので、ストレスもなかったですし、深夜までの残業もありません。すると、なんだか恵まれていて、もっと仕事をしたほうがいいような気がしてきました。そこで、ルート営業の際に、提案をするようになったのです。それまでは基本的にご用聞きの営業をしていたようなので、お客さん方は喜ばれました。いくつか提案を採用していただき、それが実績になりました。提案のコツがわかると新規開拓も嫌でなくなり、それも成果になりました。
自分は営業が苦手だと思っていたのですが、売込みのポイントがわからないままに電話でアポイントを取る作業が嫌だったのです。これがわかってからは、「お客さんが興味を持つポイント」を考えるようになりました。それが今の経営コンサルティングの仕事にもつながっています。
挫折なんてものはない方がいいと思いますが、できないことという壁に当たったら、逆にできることが見つかることもあるのです。できないことがはっきりしてくると、できることがぼんやりと見えてくる。不思議な体験でした。
自分らしくないとはどういう状態か?
自分らしいとか自分らしくないというのはなくて、今の自分が自分であると認めるしかないということを受け入れることができたのは、ずいぶんと年を取ってからでした。
若い頃に「自分らしくない」と思っていた状態とはどんなことなのか。昔を振り返って、棚卸をしてみました。
自分らしくないとは、自分が好ましい状況にいないということで、要は「思うようにならない」と考えていたということでした。
具体的には、
・やりたくない仕事をしている
・いい評価を得られない
その結果、
・将来に希望が見えない
ということになっていました。
逆に、自分らしくとは、好きなことをやっている状態のことでしたが、具体的にどうなれば好ましいのかははっきりしていませんでした。
私の場合だけかもしれませんが、結局のところ、「自分らしい」という状態が明確にはできませんでした。
ですから、「自分らしくない」の逆を考えればいいのでしょう。
・楽しい仕事(嫌でない仕事)
・期待通りの評価
・良好な人間関係
そして、将来に希望がある。
そんなところでしょうか。
期待の大小によって、自分らしいのからしくないのかが決まってくるように思います。大人になって自分らしさを求めないのは、人生への期待との折り合いがついてくるからだと思います。
私は自分らしく生きている人が羨ましい
不幸になる方法というのはいつくかありますが、最も確実な方法があるとしたら、自分を認めないことでしょう。自分をダメな人間だと思った瞬間に簡単に不幸になることができます。自分をダメだと思う方法は、人と比べるということです。
しかしながら、自分を人と比べないといのは簡単なことではありません。子どもの頃から成績は比べられますし、大人になっても年収の比較なんてものもあります。
また、インターネットが普及し、SNSが一般化したことで、好きなことで生活をしている人がどんどん目の前に出現することになりました。こうした社会では、人と自分を比較しないということがどんどん難しくなってきます。人と比べないこととは、諦めや居直りにつながってしまうようにも感じます。
私は、今でも「自分らしく生きている(と私が思う)人」を羨ましいと思います。
しかし、なんで私はダメなのだろうと思うことをなくしています。
「羨ましいから私もがんばろう」
再び、自分らしくを考える
自分らしくいつ状態というのは、思い通りになっている状態と定義しました。
では、思い通りとはどんな状態か?
これは、妄想することだと思います。
私のクライアントの例を見ても、本気で妄想ができる人はその状態を作って行っています。まさに、妄想は才能だと思います。
私など、妄想をしても、瞬時にそんなことは無理という発想が浮かんでしまいます。その時は、自分をダメだと思わずにまた妄想する。毎日毎日妄想して行けば、目指す状態が明確になってきます。
結果、私は好きなことをやっているかどうかはわかりませんが、嫌なことをしなくなっています。
世の中、チャレンジをするとできないことがわかってきます。でも、その中にできることがあることにも気づきます。そして、それを磨く。
最後に、自分とは?
人と違う人生が自分らしいと考えたこともありました。他人を起点にして違いを模索する段階で、すでに自分を見失っていると思います。
誰一人、人を同じ人生を歩む人はいません。
これまでの人生も自分。
これからの人生も自分。
最も大切なことは、この瞬間に存在しているのが自分であるということです。
やはり、他人と比較する必要はないのです。
希望とは、力を注げることを見つけること。きっと、これまでの人生に希望になるきっかけがあるはずです。
できないことに直面した後にできることが見つかるという法則があるとしたら、絶望の裏に希望があるということです。
人生がその瞬間、その瞬間の連続だとしたら、真の自分がこの瞬間にあるということです。
過去は過ぎたことだし、未来は不確定。
ならば、今を起点に自分を作っていけばいいのです。
昨日より今日、今日より明日。
生きている限り、足を踏み出す。