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【小説】青のセカイ

   理想、人が心に描き求め続ける、それ以上望むことのない完全なもの。そうであってほしいと思う最高の状態。それを俺はいつからか密かに持ち続けている。
  
   「私が御社を志望した理由は、御社での企業研究を通して社会に対して貢献したいためです。というのも...」

   就活は半年程前の大学院修士1年の2月に早期内定、内々定を貰って終えた。今までの人生を思い返すと、他人と比べて少しばかり順風満帆なものだと、客観的に見て取れる。
   高校は進学校に通い、大学、大学院は東京の国立理系、さらに内定先は大企業の研究職で高級取り。昨今の社会情勢によりライフワークバランスもしっかりとしている職場。誰もが羨むほどではないが、十分に満足できる人生のはずだ。ある一点を除いては。

   ある一点とは、思春期の頃から定期的に感じるようになった、自身に対する違和感である。それは不愉快極まりないもので、例えるなら猛暑日に直射日光を受けて熱膨張した窓ガラスの亀裂を、そっくりそのまま脳に転移させたかのような、得体の知れない"疼き"だ。
   その疼きのせいで、第三者に自身の振る舞いを、逐一指摘され続けるかのような不愉快さを日常的に感じる。自分の行いは正しいか、何か意味があるのかと毎回精査されてるような気分だ。

   こんな状況にいるとき、俺には習慣的に行うことがある。それは頭の中にある妄想の世界、"青のセカイ“に浸り込むことだ。それこそが俺にとっての最高で理想的な現実逃避だ。きっと疼きが付け入る隙もできないほどの、全身を半透明な水色が入り混じったような、柔らかな風で撫でられるような多幸感に満ち溢れるはずだ。それによって今までも、この疼きを一時的に取り除いてきたのだ。

   青のセカイとは、俺の頭の中にあるセカイ。俺しか存在しえない、言うなれば今生きているこの現実世界とは別のセカイ、別の空間である。その空間を俺は、まるでショッピングモールで親とはぐれた直後の、目を輝かせた子供のような気持ちで物色することができる。
   そこには、森に囲まれた打ちっぱなしのコンクリートで出来た建物がぽつんと佇んでいる。その建物には、足首が浸かるほどの浅瀬のプールのような水辺があり、間接照明が風で優しく揺れる水面を仄かに照らしている。さらに建物の無機質なコンクリートの壁は、照らされた水面の反射光を一身に受け入れ、まるで世界中の伝搬された優しさの到達地点のような佇まいとなっている。満点の星空で覆われたその空間全体は、息をのむほどの美しく、現実世界にある苦しみの相互作用などは存在しない。まさに理想のセカイだ。

   さて、いつもの如く俺はリラックスした状態を保った。やがて意識は現実世界を離れ、妄想で創り出した空間へと移る。寝てるとも起きてるとも言えない状態だ。重たい物を所定の場所に運び下ろしたような感覚を彷徨い、霧に囲まれた苦しみの視界が晴れると、俺は月の光が木々を照らす森の中にいた。青のセカイにダイブ出来たのだ。

   俺は慣れた歩調で、コンクリートの建物を目指して少しばかり舗装されたような林道を歩く。歩数の2乗に比例するほどの幸せが心筋膜を通過し、やがてそれが全身を循環するのを体温で感じる。きっとこの感情は現実では体験することのできないほどの、自分だけが手にすることのできる特別な物だ。
   しかし、「そのまま目を瞑れば、もう2度と開くことが出来ない」と医者に宣言されても、後悔が全くといっていいほど生まれぬような充実感に満たされたこの心地よさは、突然にして消え失せた。 

   人、人がいるのだ。この青のセカイに。およそ小学校高学年ぐらいの、朝の電車で見るような私学の制服を来た、髪は同い年の男子に比べれば少し長めで、育ちの良さそうな優しげな雰囲気を醸し出している美少年がそこにいた。俺が、俺自身が創り上げた絶対不可侵の、誰にも踏み込まれたくない領域になぜ人がいるんだ。
   その少年はこちらに気づくと、軽やかな笑みを浮かべ、お年玉片手にゲームソフトを買いに行くような楽しげな足取りで近付いてきた。

   「やあ、僕の名前はアオイ。お兄さん、この辺りを一緒に散歩しようよ」

   疑うことを知らない、淀みのないパステルカラーな笑顔でアオイは俺にそう話しかけた。
   この状況に全く納得できない。出来るはずがない。ここは俺の頭の中の世界で、たとえ俺以外の誰かが出てきても、その人物は俺の思考に基づくはずなんだ。この少年、アオイから紡ぎたされた言葉は、俺の思考の外から生まれている。第一アオイなんて名前の少年は知らないし考えたこともない。

    「君は一体何者なんだ。‥‥どうしてここにいる。ここは俺しか存在できないし、‥‥それに色々とおかしいだろ」

   1万km走行した車のエンジンオイルが混じったような嫌な汗が、ピンと伸びた背中に流れる。予想外の焦りを喰らい、まるで年下の少年に接するには適さない高圧的でしどろもどろな態度でそう問い詰めた。
   しかしアオイは怯えた様子を示すこともなく、笑みを絶やさないまま後ろへ振り返り、建物の方へと足を進めていく。少し離れた場所で、またこちらの方に振り返り、予定調和のように手招きをした。
   妄想の中に、自分とは切り離された他者がいるこのあり得ない状況で、ちっぽけな脳みそを使って冷静に考えることも出来ずに、その少年の自信に満ち溢れた華奢で小さな背中を追った。

   やがて建物の目の前まで来るとアオイは歩みを止めた。横並びになった俺の方を横目でチラリと見ると、満足気に頷いていた。

   「怖がることないよ。‥‥ここはお兄さんが創り出したセカイなんだから」

   足の震えを察知されたのか落ち着いた声音でそう話しかけられた。

   「怖がるも何も‥‥。さっきの質問の続きなんだけど、なんでアオイくんはここにいるの? ‥‥君の言う通りここは俺が創り出したセカイのはず。だから全くの他人である君がここにいるのはおかしいんだ。気を悪くしないでくれ、この状況にとても納得出来なくて‥‥」

   「大丈夫、お兄さん。ゆっくりでいいよ。納得出来なくてもいい。だって、このセカイには苦しみがない。そうでしょ?」

   直接的な答えになってはいないが、少しばかり納得してしまった。自分の思考を覗かれている、何もかもを知られているような恐怖感は徐々に消え失せてゆき、彼の声音の周波数と俺の心臓の鼓動のリズムが織りなす、サティのジムノペディのような心地よさがそれに説得力を加えた。

   さあ、あの建物の中に入ろ。  アオイは俺にそう告げながら、俺の服の裾をちょんと引っ張った。 
   このときに俺は微かに感じていたのだ。あゝ、きっと定期的に起こる"疼き"を完全に消し去ることが出来るのはこの少年だと。そんな泡のような脆く不安定な願いだとしても、このセカイ同様に誰にも破裂させはしない。

     建物の内部は図書館のような造りになっている。というよりも少し大きな市の、近所の高校生がテスト勉強に利用するような、綺麗で落ち着きのある図書館そのまんまだ。本棚に並べられた書物の内容は全て俺が体験してきたこと関する物だ。しかし、正確には史実ではない。理想的に脚色されているのだ。ネガティブな要素は薄く、何故かよくある心温まるようなストーリーとなっている。
   アオイは本棚にか細い手を伸ばし、ちょうど自分の身長でギリギリ届く場所にある本を手に取った。そしてその、俺からすれば三文で投げ出されるような書物を満足げに読み進め、無防備な笑顔で感想を伝えてきた。

   ゆったりとした時間が流れる。どれほど時間が経っただろうか。睡眠状態に突入するちょうどその狭間のような時間感覚に陥り、なんともいえない心地よさを感じる。
   しばらくして、建物の外の水辺の方で二人して並んで互いにそれぞれの本を読み進めていった。

   「ねえ、お兄さんの小さい頃の夢はなんだった? ちょうど僕ぐらいの歳のときの」

   「う〜ん、そうだな‥‥ 。プロ野球選手とかだったような気がする。昔野球やってたしさ」

    「そうなんだ。‥‥でもさでもさ、今はそれを目指していないようだけど、どうして?」

    少年の無垢な問いかけに、俺はいなすようにボールを返した。

    「まあ、そんなもんなんだよ。小さい頃の夢ってさ、歳を取るにつれてだんだんと現実ってもんが分かってきてさ、今は思い描いていたのとは別の道を歩んでいるんだ」

    「じゃあさ、今は何を思い描いてるの? どうなりたいの?」

   少年の無垢な声音に俺は言葉を詰まらせてしまった。適当なその場凌ぎの返事ができなかった。不思議とこの曇り一点のない目とともに放たれる言葉に対して、真剣に答えなければいけないと思ったからだ。そんなマリオネットの糸の一部が突然切れたような俺の様子をみて、アオイは更に続けた。

   「お兄さんは何をしているときが一番楽しい?」

    「そりゃ、友達といるときとか彼女と過ごすときとか‥‥」

   明らかな欺瞞だ。これは本心ではない。もちろんそれらの瞬間が楽しいことは嘘ではない。でも"一番"ではない。まるで俺の本心を知ってるかのようにアオイは再び問い直した。

   「じゃあ、この"青のセカイ"にいるときはどう?」
 
    楽しいよ。 そうハッキリと答えた。
    思えば当たり前だったのだ。このセカイにいることが楽しくなければそれを創り出さないのだから。
   もともとは"疼き"から逃れるために創った。しかしこのセカイで過ごすことが楽しくなければ、そもそもこのセカイで過ごすことが、"疼き"を取り除くことが出来るという論理さえ成り立たない。それに、こんなにも誰にも傷つけさせないように大事にはしないだろう。だから、きっと俺にとってここが一番であると言えるのだ。
   だが、何故俺はこのセカイを楽しむことが出来るのか、このセカイの何が俺に幸せを与えるのか。それを探すために、与えられた心地よさに浸っていて、考えることさえしなかった理由を見つけに、思考の海へと沈んでいった。

   しばらくこのセカイにいる俺を取り巻く環境について深く考えていると、1つシンプルかつ重要なことに気がついた。肯定感だ。このセカイは俺に対して、全てにおいて肯定的だ。このセカイの見た目も、感じ取れる雰囲気も、建物に置いてある書物も、突然現れたアオイという存在さえも。
   これが俺の理想なのか。理想とは人が心に描き求め続ける、それ以上望むことのない完全なもの。そうであってほしいと思う最高の状態をさす。つまり誰かに認められたいという思い、誰かに認められてる状況が俺の一番望んだものだということだ。そんなのは嫌だ、冗談じゃない。まるで俺には誰かに認められないと自分を保てないみたいじゃないか。男らしくもなく、自分の力だけを誇示する猿のようだ。
   しかし、これほど説得力のあるものはない。なぜなら俺は、周りの人間が望むような役割を果たしつつ、その過程で承認欲求を満たしながら人生を生きてきたからだ。
   中学のときは友達に誘われて同じ部活に入り、高校、大学は親を喜ばせるため、賢いって思われるがために難易度の高い所に入学し、就活では、親に独り立ち出来ると証明するため、周りにエリートだと思われるために大企業を志望していた。もちろん自己分析などはちゃんと行わず、es、面接対策もとってつけたようなテンプレートと嘘を織り成していたのだ。とどのつまり、俺には自分自身が無いのだ。芯がなく、周りに依存しているだけの哀れな道化だったんだ。
   こんな簡単なことにどうして今まで気づかなかったのだろうか。いや、おそらく気づいていたのさ。ただ、それを直視することに耐えられなかっただけのことだ。弱くて周りに認められない自分が曝け出されるから。

   ずいぶんと長いこと思考していた気がする。さっきまで心地よかったこの空間に、一筋の亀裂が走り、灰色の緊張感と不快さを漂わせる。喉から手が出るほど欲しいと願った絵画が、手に入れた途端贋作だと気づいたような失望に似た感情を抱く。息を呑むほど美しいと感じたこの景色が、俺を一斉に嘲笑し始める。
   俺は母体に眠る胎児の姿のように項垂れてしまった。もう限界だと思った。今まで心地よかったこのセカイさえも、俺に甘い幻想など見せてくれはしなくなった。そんな様子を見てか、僅か30cmほど離れた温もりの根源が口を開いた。

   「大丈夫だよ」

辞めてくれ、もうこれ以上俺を肯定しないでくれ。自分が惨めだという鋭利な現実を、首元に突きつけているようなものなのだから。惨めさに気づいたところで、24年間も見て見ぬふりをしてきた俺に、受け入れることなど到底出来ないのだ。

   「空を見上げてみて」

その言葉に俺は、今抱えている77ポンドほどの苦しみから逃れるように首を上に傾げた。

   「満天の夜空が綺麗に見えるのは、僕たちがそれを見てるからだよ。だからさ、きっと大丈夫なんだよ」

彼の言葉が、俺の耳の奥にある強情な壁をふんわりと揺るがせた。

   その瞬間、俺を囲うように存在していた青のセカイがゆっくりとその形を変え、今までに見たことも感じたこともないような、言葉で例えること出来ないほど綺麗で幻想的な姿となり、消えていった。

   「ここで体験したこと、忘れないでね」

それがアオイの最後の言葉となった。

   


    目を覚ますと、東京自由が丘の1Kマンションの一室にいた。カーテンの隙間から朝日が差し込む。不思議と晴れやかな気分だ。

    食パンをトースターに入れながら、先程までいたセカイでのことを考えていた。そう、きっと俺はもう自分自身を恥じることはないのだ。具体的に何かを解決したわけでも、明るい未来を約束されたわけでも無い。だけど、もう"疼く"ことはないだろう。自分自身の性を受け入れ、それを否定しない、それがきっと全てだと思うんだ。
    食パンが焼き終えた音がする。今日は大学院にいって研究でも進めるとしよう。今までよりももっと能動的に動ける気がするんだ。

   

  

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