2023悪役論(フィクションの好きな悪役の話)
はじめに・まえおき
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あらゆる創作物は、その時代の情勢に影響されると私は考えます。
たとえば映画では「景気が悪いと暗い作品が多く作られる」というのは有名。もちろん全てではなく、全体の傾向の話。
(景気が悪ければ生活が苦しくなり、人々の気持ちや社会にも余裕がなくなり、鬱屈とした気持ちが創作物に吐き出されるからではないでしょうか)
1950年代のWW2終わりからベトナム戦争までは、終戦のムードがあり
ほがらかな作品や歌が多く、
1960年代になると冷戦からベトナム戦争を経て、
音楽も、創作物も暗く、悲惨なものが出てきます。
1980年代になると、未来や宇宙への希望から再び明るい作品が増え…
このように、政治や情勢は、わたしたちのマインドに大きな影響をもたらします。そして現代。中国のプーさん、ロシアのプーチン、アメリカのトランプ、日本の安倍と、世界中のリーダーがイカレ野郎ばかりという、まるでコミックのような信じられない悲惨な時代が訪れました。
タモリさんが「新しい戦前」と痛烈に批判したように、世界の緊張は高まり、なぜか税金は増え軍備拡張を進める日本では戦争の気配が漂って来ました。そのように、今はまさに暗黒の時代です。
光は、闇の中でこそ輝く(ここも前段)
わたしが生まれたときから悪役(ヴィラン)に心を奪われていて
幼少期から怪獣や怪人が大好きでした。
戦隊よりも、仮面ライダーよりも、毎週「どんな敵が出てくるのだろう」という興味でいっぱいでした。
そうして紆余曲折あり、古今東西の様々な作品に触れた私は今ではすっかりヴィランのファンになってしまいました。
悪役というのは、基本的には主人公の対になる存在です。
主人公が善人なら、悪役は悪人
主人公が悪人なら、悪役は善人や独自の「正義」を信じる人
主人公が犯罪者なら、悪役は主人公を追う警察や体制。
主人公が少数派なら、悪役は多数派。
多くの場合、主人公は光であり、悪役は闇であります。
どこかで聞いた至言の一つに、こんなものがあります。
「光は、闇の中でこそ輝く」
明るい場所では、火やライトは目立ちません。
が、暗い場所ではどんなに小さい光も輝きを放ちます。
このように、主人公を際立たせる存在としても、
悪役というのは物語の上でも特に重要な存在です。
私の持論として、おもしろい作品には、強烈な悪役が必要で、
「悪役が弱い作品は、作品自体も弱い」と考えています。
たとえばスター・ウォーズやジョーズなんかが筆頭の候補で
悪役という存在は、作品の面白さを左右するものであるという持論です。
本題:2023年(1月~9月)好きな悪役
① 映画「ゾン100」サメちゃん
予告編やキービジュにも出ているとおり、この作品にはサメが出る。
詳細はネタバレになるので割愛するが、このビジュアルがとにかく素晴らしい。クリーチャー造形のセンスに脱帽で「この発想は無かった」というやつ。 邦画と侮るなかれ、CGの出来もたいしたもので、この映画のクライマックスにふさわしい。
作品全体がおもしろいかどうかはさておき、クリーチャーマニアはこのサメちゃんを見るためだけに、映画を見る価値があります。
② 映画「GotG:volume3」皮の男
MCUガーディアンズ・オブ・ギャラクシー3作目。
「この映画を見るために、その前の映画を見るために…」と
歴史が連なるに連れて敷居の高くなっていくMCUですが、
本作を楽しむためには、たぶん映画25本とか見なれば真に楽しめないのが辛いところですが、そこは一旦おいておきます。
本作の悪役である、皮の男ハイエボリューショナリー(=進化者?)は
ここ数十年ほどの映画の中でもずば抜けたマッドサイエンティスト。
とびきりのイカレポンチ野郎で、どのぐらいかっていうとメイドインアビスのボンドルドと同じか、それ以上のサイコ野郎。倫理観マイナス。
「おまえを進化させる」とか言って手足をちょん切って機械に変えるのは序の口で、動物や宇宙人(生物)を拉致して遺伝子操作、駄作=作品が気に入らなければすぐ殺す(星ごと)、まーやりたい放題です。こんな宇宙規模のイカレ野郎は、滅多にお目にかかれるものではありません。こいつの所業に比べれば「PSYCHO-PASS」の動物園や「武器人間」はまだマシというもの。
彼の作った創作物のビジュアルもまた、かなり衝撃的なのでオススメ
③ 映画「ベイビーわるきゅーれ2」兄弟
主人公は二人のヒロインで、しがない殺し屋をやっているのですが、
彼女たちは社会不適合者。それでも、殺しの腕はバツグンなので殺し屋業界という裏社会の中ではそれなりのポジションに居ます。
いわゆる負け組という烙印を押された者たちの中でも、まだマシな方
という”下の上”が、ヒロインのポジションであると言えます。
そんなヒロイン達に対して、殺し屋業界の中でも更に3Kみたいな底辺に居る
まだ何者でもない二人の男兄弟が何者かになろうとする・業界の中で成り上がろうする"下の下"から"下の上"を目指す下剋上の物語が、この第二作。
女性二人のペアであるヒロインに対して、男の兄弟というシンプルな対比の構造も、悪役ファンからすると熱い構図です。
(女性が主人公の作品において、やっぱり敵は男の方が盛り上がると思うんですよね。女性と男性という、ある種の絶対的に相容れない、融和できない存在というのは、創作物においてはわかりやすい対比です。
話は逸れますが、男性が主人公の作品で女性が悪役というのは何故かあまりピンと来ないのは不思議です。)
その、底辺の更に底辺から這い上がろうとする様、結局這い上がったとしても、そこは「下」であることに変わりは無いのですが、その悲哀も含めて
もがく生き様は人間らしく、彼らの「やってやろうぜ!」という熱い生き様には心を打たれます。「男なら人生でなにかひとつやり遂げるべき!」みたいな潜在意識のようなマインドがあるのは、日本だけでしょうか?
④アニメ「推しの子」父親
ネタバレを可能な限り避けて言うと、まずこれは日本の芸能界の話
しかも、わりとリアルな芸能界を舞台にしたフィクション。
そんな中で、主人公の仇となる存在が父親なのですが…
主人公が子、立ち向かうは親、という構図はスターウォーズ然り
ローマ神話の時代から子が親に立ち向かう物語は同時に成長の物語でもあり、伝統的な対立の構造ですね!
そしてこの父親が相当な悪人。人を操って殺人までする。ホームズのモリアーティや、古畑任三郎のファイナルに出てくるような、マスターマインドの種類です。近年では、自分の手を汚さない黒幕タイプの悪役は珍しく、
アニメの一期では1カットも、名前も顔も、全く登場しません。
それでも父親の存在が主人公の強烈な原動力となっており、
主人公は敵討ちをするという、壮大な復讐劇の側面があります。
(この辺まではネタバレしてもいいよね?)
復讐の味は蜜の味と言ったもので、暗い動機に突き動かされ闇を進む主人公とマスターマインドである父親との対決の時が待ち遠しいです。
きっと、生死を賭けた戦いになるでしょう。
⑤アニメ「ゾン100」日暮
ヒグラシ…彼の存在が、私にこの文章を書かせた原動力です。
ゾン100という作品は、ブラック企業の社畜でゾンビのような毎日を過ごしてした主人公が、ゾンビアポカリプスにより開放され自由になって人生を謳歌するという物語です。「親友に合う」「旅行に行く」「合コンする」「漫画を一気読みする」などのやりたかったことをする話。
これは、彼が失われた青春をやり戻すという、再生の物語という側面もあります。
このアニメの第9話(放送を落としたので一旦、最終回)に突如登場するのが、日暮(ヒグラシ)というキャラクター。
彼もまた、ある種は主人公と同じような、鬱屈とした毎日を送っていました。割の良いバイトを転々とするような、自堕落なフリーターです。
でも彼は、社会が自分を除け者にしたと思っています。
自分がこんな境遇になったのは社会のせいだと信じているのです。
彼にとっては、これが真実です。
彼が親に寄生して、タバコにも強く依存している様子から、なにかに依存することで、自分から、つまり現実から逃避している人間だという事が読み取れます。「社会のせい」にすることで自分の非を認めない、自分の現実と向き合っていない人間でしょう。
でも、これは私を含め、多くの現代人は少なからず共感できる境遇ではなないでしょうか。学校や会社から逃げちゃ駄目なの?逃げたって良くない?という疑問は、だれしも一度は考えるのでは。
ここでやっと、冒頭(まえおき)の社会情勢の話につながってきます。
実際にいまの日本では、政府以外に誰一人得をしないサイアクな「インボイス制度」がまかり通っており、自民党はカルトの統一教会とズブズブで、公明党も創価学会という、これまたカルトな宗教団体が創設した政党です。政教分離という考え方を絶妙にすりぬけた集団です。
このような連中が日本を率いてから40年。日本の景気は悪化の一途です。
景気の善し悪しを決めるのは政策で、政策を決めるのが政党です。
簡単に言うと、政党が変わらないと景気が良くなるはずがないのです・・・
ヒグラシが「社会のせいだ!」というのは、完全に間違っているわけではなく、じっさい社会・政策の要因もあるのでしょう、
しかしそれが全てではなく、彼自信にも問題があるはずです。
社会や学校から逃げてもいいけど、全てを人のせいにしてはダメだと私は思いますね、でも、言うは易し…
この現実の日本と、今を生きる日本国民の感情や生活が生々しく重なった
等身大な存在こそが、ヒグラシです。
無法の世に、暴力も働かず、女性にも手出ししない、性善説の塊のようなアキラっていう人間は、この世に居ると思いますか? 主人公にはリアリティが無く、ヒグラシは世界のどこにでも居そうな、極めてリアルな存在という対比もまた良いです。
主人公アキラも社畜でありましたが、立派な会社に就職して、上京・自立して一人暮らし、格好いい親友も居て、きれいな女性の友達もいて、キツいブラック企業から逃げない毎日。
その一方でヒグラシはといえば、フリーターで定職も無く、友達も彼女も居らず、実家暮らしで、自分や現実から逃げている。
ヒグラシから見れば、アキラは間違いなく"持てる者"です。
アキラもまた " 下の上 "なのですが、それでも、持てる者です。
ヒグラシは完全に"持たざるもの"です。社会の底辺です。
この対比の構造、惚れ惚れします。
主人公と似ているようでもあり、真逆の存在でもある。
主人公の名前が、天道 輝(てんどう あきら)なのに対して、
このヴィランは、日暮 莞太(ひぐらし かんた)という名前です
主人公は「天道虫」あるいは「お天道様」をイメージさせる、陽の名
ヴィランは「日陰」「その日暮し」「ひぐらし」はっきりと陰の名です。
このわかりやすい対比も良いですね。
ネーミングからも、主人公とヴィランの対立が決定づけられていたと思われ、この物語においてどれほど重要な存在かを伺い知れます。
脚本や心理学の言葉では、このような対称的な存在は「シャドウ」と言うようです。わかりやすいシャドウの関係の例は
ナルトとサスケ(NARUTO)
デクと死柄木(ヒロアカ)
ルルーシュとスザク(コードギアス)
アムロとシャア(ガンダム)
などでしょうか。
このようなシャドウの敵対者は、悪役として強烈な存在感を発揮しますね
ヒグラシの登場シーンは5分にも満たないように思いますが、それでも
強烈なヴィランとして、主人公のアキラを輝かせることでしょう。
10話以降が楽しみ!
最後にもう一度「光は、闇の中でこそ輝く」
ヒーローは、ヴィランが居てこそ輝くのです。
闇が深いほど、ヴィランが強烈なほど、ヒーローはより輝きを増すのです
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