
「もったいない」から継続する
一応、「記事を書く」ということを生業にして、トータル20年が経過しようとしている。なにか特別な訓練をしたわけでもない。そういう専門学校に通ったわけでもない。だから、「キャリアのわりには下手くそだなぁ」って、『ボクシング・マガジン』の読者や、個人のSNSを見ていただいてる方で、そう思ってる人もたくさんいるはず。実際、「小学生のような文章だ」とSNSで言われたこともあるし(笑)。でも、だからと言って、しょげて「もうやめた!」なんてことにはならない。それはもちろん、生活をしていかなきゃならないし、家族だっているから。途中で投げ出すわけにはいかない。投げ出すつもりもない。だって、「ボクシングを描く」のが好きだから。ただただ純粋に「ボクシングを描きたい」、そう思ったのが高校時代で、出発点で初心。
たんなる「ボクシング好き」から始まって、その想いだけで基礎もなんもなく突っ走ってきた。カッコよく言えば「叩き上げ」だ。
「ボクシングを描く」のが好きだけど、もっと大前提に「書く」のが好きだ。だから個人的にSNSも手あたり次第、利用している。いちばん最初が今は完全に休業状態のmixi。次にFacebook、続いてTwitter、そしてInstagram。いちばんの後発はこのnoteだ。
書く内容はできるかぎり、違うようにしている。どうしても同じネタでいきたい場合は、ちょっと加えたり削ったり、まったく同じものにはならないよう、ほんのわずかの工夫をしていたりする。たぶん、全然気づかないと思うけど。読んでくれてる人も少ないし。別にフォロワー数とかリアクション数は気にしてないし。「量より深度」が大事だと思ってるから。
もちろん、「何かを伝えたい」という想いはある。「ボクシング・マガジンの人って、こんなやつなんだ」って興味を持ってもらいたいというのもひとつ。でもなんでそんなにやってるの? って訊かれたら、その理由は「書くことを鈍らせたくない」からだ。
文章は、書かないとどんどん鈍ってしまうのだ。筆が。いや腕が。いやいや頭が。特にそれが文才のない人間ならば、なおさらである。だから書く。書きまくる。そして、それぞれを“棲み分ける”。その“割り振り”を考えるのがこれまた楽しい。
写真メインのインスタ、長文仕様のnoteは別として、どうしてもかぶってしまうのはFacebookとTwitterだ。しかし、Twitterには140文字という制限があるから、ほとんど書きたいことは書けない。だから、本当に“つぶやく”。
Facebookには以前は長文を書いていたが、それはnoteを始めたことでそちらへ移行。最近はTwitterにさらに少し手を加えたものを載せることが多い。手抜きっちゃ手抜きだけど、案外Facebookには、Twitterで書ききれなかった“言いたいこと”を書き加えていたりもする。
こんなふうに、「書く」ということを考えていて、「ボクサーの練習と似てるなぁ」って感じることが多い。実におこがましい話ではあるのだが。
ボクサーも試合に向けて自分を磨き続ける。自分が100%と思える状態をつくり、試合に臨む。そして、試合が終わると羽を伸ばす。食べたかった食事を存分に味わったり、飲んだり、遊んだり……。日頃応援してくれているスポンサーへの挨拶回りもある。ジムからは自然、足が遠のく。ロードワークからも。ついには「試合が決まったら、練習復帰しよ」ってことになる。何ヵ月もトレーニングを離れる。太る。筋肉が落ちる。体の全機能が落ちる。いわゆる“錆びる”だ。
すると、100%あった状態が、急降下していく。練習再開するときは、ゼロスタートどころか、マイナスからの出発になることもある。まずはダイエットから。ようやく動ける体になり、30%ぐらいになる。そこから、自分の中の100%をつくっていくのはまたまたしんどい。
そういう繰り返しをしているうちに、自分の中の100%は、100%でなくなってしまうかもしれない。70、80%を100%と勘違いする。そしてまた、グダ~っと大の字になる。マイナスになる。そこからまた始め……って、考えただけでもおぞましい。
試合という極限の世界は、精神的にすり減ることが多いだろう。だから、羽を伸ばすな!というのが、どだい無理な話。でも、なるべくなら、100%からあまり落ちていない段階で再スタートすれば、それまで築き、仕上げてきた体と努力は無駄にはならない。60、70%でスタートするのと、20、30%から始めるのとでは全然違う。それがゼロとかマイナスなら、味わわなくてよい苦しみをまた経験しなければならない。「ゼロから一気に!」というほうが肌に合ってる、というなら、それはそれでもちろんOKだけど。人それぞれやり方があるし。
自分の中の「100%」が上がるか下がるかは、自分次第ということだ。積み重ねる、継続する人は、いつの間にか100%が以前の110、120%と上がっているだろうし、いったん緩みきった状態にしてしまう人は、前述のとおり、落ちた状態を100%と見誤ってしまう。それが長年、続いていったとしたら、ものすごい“開き”が生まれてしまうのは当然だろう。
コツコツと地道に継続できる人は、案外、そんなに苦を感じていなかったりするものだ。井上尚弥もそう、八重樫東もそうだった。むしろ、彼らと話し、見てきて感じたことは、「せっかくつくったものを壊すのはもったいない」という感覚だ。作るのは難しく、壊すのは簡単だということを知っているから。そしてやっぱり動くのが好きということ。八重樫は「歯磨きをするのと同じなんです」と言って、現役を引退したいまも、教え子たちに混ざってトレーニングしている。私も含め、周りはみんな「すごいねー」と感心するが、本人にしてみれば「何が?」ってポカン状態。だって、歯磨きと一緒なんだから。
「もったいない」といえば、いろいろな選手の練習風景を観察してきて思うことがある。たとえばスクワット。A選手とB選手が、同じ回数をやる。Aは毎回、いちばん下まで沈み、いちばん上まで上がる。Bは中途半端にしゃがみ、中途半端に立つ。たった1セットでも、小さな差は生まれる。それが何セットにもなり、1日でも相当な差ができる。1週間経ち、1ヵ月、半年、1年……。時が経てば経つほど、もう考えられないくらい、二人の間には“開き”が生じるだろう。
たった1回で見ればほんのわずかのこと。でも、その微かな努力を怠ったことで、歳月が積み重なると、追いつけないくらいの差ができる。それはフィジカルに限らず、なんでもそう。ボクシングに限らず、スポーツに限らず、なんでもそうだ。
継続している選手たちを見て、自分がやらなければいけないことを考えた。そして「書く。ひたすら書く」、そこに行き着いた。
下手くその叩き上げが、文才ある人たちと張り合うには、やっぱりいっそうの努力をしなければならない。いや、書くことが好きなんだからこれは努力でもなんでもない。せっかく筆に墨がついてる、いや、指に脂が乗ってる、いやいや、頭に書きたいことが山ほどあるんだから、書かない手はない。「下手な鉄砲、数打ちゃ当たる」だ。鉄砲と違って、バンバン書いても当たんねーんだけどさ……。
でも、そんなふうに気軽に書いていることで、誰かひとりにでもなにかのヒントになったり、クスっと笑ってもらったりできれば、そんなに素敵なことはないじゃあないか。
いいなと思ったら応援しよう!
![本間 暁[闘路園TOUJIEN]](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/164676568/profile_3995199a81b20afcf7df61c2b20e8342.jpg?width=600&crop=1:1,smart)