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モノづくりの上の切なる願い

※写真は『ボクシング・マガジンTwitter』のトップ画面

 なんでも、「ドラマや映画を早送りで観る」人が多いそうである。自分の中では、まったく想像すらしていなかったことだけに、ただただ驚くばかりである。まあ、「絶対にこれだけは広まらないだろう」とのんきに構えていた歩きスマホ人(通称:スマホ・ゾンビ)が、ここ数年ですっかり多数派になってしまったのだから、もう、何が起こっても驚いちゃいけないのかもしれない。自分の体力の低下(そこまで感じてないが)以上に、世間とのズレで年齢を感じる──いや、これは年は関係ないな。感性、感覚の違いだな。でも、自分のそれらが古いとは決して思わないのだけれども。

 世の中、いつの間にやら、なんでも「効率化」が尊ばれるようになった。短い時間で効率的に。無駄を極力省く。要領よく……。もちろん、それも大切なことが多い。自分のような仕事をやっていると、校了間際なんてまるで戦場のよう。本当に1分1秒が惜しいくらい殺気立っているから、のんびり悠長になんてやってられない。いかに無駄を省くか。その結果、食事やトイレをカットすることになったりする。

 でもこれも、時と場合によると思うのだ。しっかりと時間をかけてじっくりやらねばならないときやことは必ずある。他人から「無駄」と思われようと、本人にとっては決してそうではないこともある。われわれの仕事で言えば、電話で済ませられると思えることも、実際にジムに足を運んで、選手本人と顔を突き合わせて直接話を聞くとか。顔が見えているのとそうでないのではまるで違う。コロナ禍になって、オンライン取材が増えたが、やはり実際に会うのと、画面を通して顔を見るのでも印象は全然違う。

 選手が語る言葉は同じでも、声だけ聞く、画面を通して見る、実際に会って話すのでは、意味合いが変わってくることもある。実際に会えば、表情の微妙な変化、声音などで、本心とのギャップを読み取ることもできる。それは、時間がもったいないからといって電話取材にしてしまっては味わえないもの。だから、去年からのコロナ蔓延によって、直接取材を避けねばならない機会が増えてしまったことは、われわれにとっても大きな損失なのだ。でも、「いちいち行くのがめんどくさいから、そこが省けてラッキー!」って思っている記者もたくさんいると思うけど。自分の場合、絶対に練習を見なければ気が済まないので、そこはもう、「記者としての姿勢」の違いとしか言いようがない。

 ドラマや映画を早送りで観るに話を戻す。「そんなんでおもしろいの?」が最初の感想。そりゃ、ざっと観ればストーリーはなんとなくわかるかもしれない。でも、余程の動体視力の持ち主でないかぎり(いや、そんな人は世界中どこを探してもいないはずだが)、役者の演技や細かい部分がわかるはずがない。役者を含めた作り手が、考えに考えて生み出したものの、ほんの数ミリの表面しかなぞれない。様々味わいたいという質の自分には考えられないことだが、千歩譲ってそれでいいと言うならば、「おもしろい」は言っても「つまらない」は言うべきではない、いや言う資格がないと思う。作り手からすれば、「観てない」に等しい行為だから。

 自分では見もしないで、人から聞いたことで判断してしまう人が多いのは、いまに始まったことではない。もちろん、ある程度は風評も大事。「口コミ」で良い商品、良い作品が広まっていくことは実に喜ばしい。でも結局、人から薦められて試してみて、それが良いと判断してのものだから、やはり結果的には「自分で体感」していることになる。でも、「飛ばし観」は体感とは言えない。

 スポーツも、ニュースに始まり、動画サイトやSNSでハイライトやワンシーンのみが観られて語られることが多い。自分ももちろん愛用している。けれど、それはあくまでも“パーツ”であって、自分が観ていない、その他ほぼすべての中に、大切なものがある可能性のほうが高い。自分は野球の中日ドラゴンズのファンで、もちろん『プロ野球ニュース』で確認することもあれば、『スポナビ速報』で文字だけで試合を追うこともある。でも、それでは到底「観た」とは言えない。単なるファンでしかないが、そんなことで観た気になって、批評なんてするほどの図々しさは、自分にはない。「お、勝ったのか!」「なんだ、また負けたか」「おー! ビシエドまた打ったか!」、そんな程度である。ただし、プレーボールから終了まできっちり観たときは、いろいろと言わせてもらってるけれど。

 ボクシングだって同様だ。初回開始ゴングと同時のワンパンチで試合が決した(長い歴史上、ただの1度もないが)ならいざ知らず、KOで終わろうが判定で終わろうが、そこに至るまでの両者のせめぎ合い、過程が必ずある。そこにこそドラマがあり、醍醐味があると自分は思っているのだが(そうじゃない人がいることも理解してます)。でも、ハイライトやKOシーンのみで、様々御託を並べられたら……。推して知るべしだ。

 われわれだってそうだ。スマートフォンの普及によって、ネット記事も重要な仕事のひとつとなったが、その記事の見出しだけ見て判断される(それを逆手に取っている記事のなんと多いことか)ことが往々にしてある。たまらない。とてつもなく堪らない。本音を言わせてもらえば、「タダなんだからさー、ちゃんと読んでくれよ!」だ。全部読んだ上で批評を受けるなら、それは“ある程度”納得できる。“ある程度”というのは、読み間違いされていることが、これも山ほどあるから。

『ボクシング・マガジンWEB』の場合、Twitter、Facebook、さらにInstagramにも記事のリンクを貼りつける。それぞれ、「いいね!」とか「リツイート、シェア」などのリアクションボタンがある。リアクションが多ければ、「あ、この選手はファンが多いなぁ」と思う程度で、記事内容についてのリアクションだとは思っていない。切ないことだけど。誰の記事で、タイトルは何か、見出しは何かだけで反応している人が大半だということを知っているからだ。

 ドラマや映画、音楽など“創造する人たち”は、当然、全スタッフがそれぞれ、様々な工夫を凝らして作品を創り上げている。スポーツ選手ならば、ワンプレーワンプレー、それこそ0コンマ何秒の集積によって、両者が勝利を目指した道程を作り上げる。そんな崇高な人たちと並べてしまうのはおこがましいが、われわれも様々な想いを込めて原稿を書き、写真を撮り、写真を選び、記事を作成し、雑誌を編集している。

 パッと見で「いいね!」は良いとして、批評というか批判をするならば、すべてをきちんと観たり見たり読んだりすることが、最低条件ではなかろうか。これはその人物が、その生き方が判断されてしまうほど大切な事柄だと思う。そして、末端ながら「モノを作る人間」としての切なる願いである。

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