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いつか消滅するとしても EP.11

 僕と氷雨は、駅ビルの2階にあるマックに入った。もっとガッツリ食べられるところを提案したけど、氷雨は「いいです。お腹空いていないので……」と頑なに拒否し、マックを指定した。そんなに俺、金なさそうに見えるの? とからかいたかったけど、氷雨は真に受けそうだからやめておいた。
 僕が2人分のハンバーガーをカウンターで受け取ると、階段を上り、氷雨が場所をとっておいてくれていたテーブル席に向かった。まだ氷雨は緊張をしていて、コンパクトな鏡を見ながら、前髪の流れを直し、赤いリップを塗ったりしている。僕が来たことに気づくと、さっと鏡を隠して不慣れな笑みを浮かべた。僕は笑いを噛みしめながら、席に座る。
「氷雨は、一人っ子?」
 緊張を解くために、差し障りのないあたりで話題を振った。
「はい。……一人っ子に見えましたか?」
「いや、当てずっぽうで聞いただけ。俺も一人だよ」
 そして手でハンバーガーを食べろ、と促す。先生も、と言われ、僕もハンバーガーを手にとり、包み紙を取り払った。
「お兄ちゃんがいたら、良かったです」
 俯いて何気なく呟いた氷雨の声に、少し寂しさが滲んでいた。どことなく、親とうまくいっていないのかもしれない、と感じさせられた。
「――長瀬先生は、今実家暮らしですか?」
 ハンバーガーを握りしめながら、氷雨は上目遣いに伺うように尋ねる。
「いや」
「じゃあ、一人暮らし……」
「一人暮らしでもない。大学時代の友人とシェアハウスしている」
 なぜだか氷雨は、ほっと安心したように息をついた。実質的には「同棲」なのだが、親にも事情を説明するのが面倒で「シェアハウス」という言葉を使うと、一応みんな納得してくれるのが不思議だ。
「大学時代の友人……、喧嘩とかしませんか?」
「するよ、もちろん。まあ、喧嘩してもお互い熱くならないタチだから、すぐ仲直りっていうか、気まずくはならない」 
 そう言って、視線を宙に浮かせた。今は、多少気まずい時期が続いているけども。
「いいですね、そんな関係……わたしも早く家を出たいです」
 目を伏せ、そっと氷雨は笑う。どこか翳りの見せる小さな笑い方に、また弘子の顔を思い出してしまう。僕が氷雨瑞希を気にかけてしまうのも、「かわいそう」という気持ちからなのだろうか?
「家を出たら? 大学入るのも、それの口実になる」
 口に入れかけたハンバーガーを戻し、氷雨は赤い唇をきゅっと噛みしめた。しばらく口を閉ざしていて、唇が震えているのでどうしたのかと思ったら、涙をこぼした。
「氷雨……どうした?」
「ごめんなさい、先生。……そこに、長瀬先生がいたらいいなって思って想像して、そしたら悲しくなっちゃって……」
 震える手の甲で涙を拭う氷雨に、何も言えずハンカチを差し出した。氷雨はぴくりと唇の端を震わせ、静かに笑みを浮かべながら僕のハンカチを手にとった。氷雨の爪には、彼女の雰囲気には合わない赤いマニキュアが塗られている。ふだんは、何も塗っていなかったことを思い出し、とっさにこれは彼女が企てたもので演技なのではないか、と勘が働く。そして、そんなふうにまだ子どもみたいな生徒に疑問を抱く自分を軽く咎めたりもした。
「――大学に入っても、先生に会いに行ってもいいですか?」
 ハンカチで口元を覆いながら、氷雨は僕に問いかけた。でも、その問いかける瞳には、肯定しか受け入れない、というような強い意志が表れていた。
「別にいいけど。――氷雨なら大学でいい友だちができるよ。なんで俺にこだわる?」
 口あたりのいいことを言いながら、氷雨の本心を探る。
「先生は――。他の人と違って、優しいから。それと」
 それと? と促すと、氷雨はもう涙が止まった瞳を細めて、
「わたしを傷つけない人だとわかっているから」
 と、小さい声ながらも確信を持つ響きで言った。

 ●

 氷雨を駅まで見送った際、彼女のほうから手を絡ませてきた。どうしたの? とは言ったけど、やめろ、とは言えなかった。そう強く言えない僕を、氷雨は見抜いた上で手を握ってきたのをわかっていた。
「またご飯を一緒に食べてください」
 弱く笑いながら誘う氷雨に、返事をせず曖昧な笑みを浮かべた。隣にいた会社員が、僕と氷雨を非難するようにちらと見たのをきっかけに、氷雨の手が離れた。ようやく解放されたと思った。
「気をつけて帰って。あと、ちゃんと寝ろよ」
 電車が来るまで一緒にいるのが耐えられず、手が離れて僕は別れの文句を言った。氷雨は、へらへら笑って「はーい」と間延びした声を出し、手を肩のあたりで小さく振った。階段へと歩きながら、氷雨に手を振り返すと、それより大きく氷雨は手を振ってきた。僕は顔に笑みを浮かべながら、財布に入れたミルキーの包み紙をすぐに捨てることを決めた。

 帰り道の途中、僕はコンビニに寄った。傘を畳み、店内に入ったとたん、鞄の中でスマホが振動する音を感じる。スマホを取り出せば、優からのLINEだった。飯、食ってるよ。という一文だけ。怒っているのだろうか。遅くなる理由の相手が弘子だと思って?
 スマホの画面を指で叩き、「悪い。生徒に捕まった」とメッセージを打つ。それは事実だけど、少し違う。でも、優は「了解」のスタンプを押すだけで、別に干渉して来ない。干渉するほど、信頼していないわけじゃない。たとえ、僕の心が以前とは違ったものになったとしても。
 免罪符になるかわからないが、優のために缶ビールを2本とチーズを買う。あとで思い出して、煙草も。イートインのスペースでコーヒーを一杯飲み、財布にしまっていたミルキーの包み紙を取り出す。正確に並んだ数字の列を見て、店内の燃えるゴミのボックスに入れた。指から離れたとたん、自分の手に妙な感覚を持った。
 手の甲を表側に見せて、宙に浮かす。爪が白いと感じ、よく見ると縦に小さな線がいくつも走っていた。視線をわずかにずらすと、爪だけでなく皮膚までも変わっていた。浅黒い色をして乾燥しているのか、銅板をニードルで引っかいたように、細かな皺が寄っている。少し力を入れると、今度は血管が浮き出て、全体の手の肉がそげ落ち、薄い皮膚を血管が押し上げているような――まるで、老人みたいな手に変わっていた。
「――……は」
 わけがわからず、思わず声を漏らす。手のひらの方を向けると、以前よりも赤い色をして、また手の皺の数が目についた。ぐっと拳にして心持ち強く握ると、指の関節が痛む。イートインの近くにいた上下スウェットの30代半ばくらいの女が、うろんげにこちらを向いているのに気づき、僕はすかさず老化した手をパンツのポケットに入れ、イートインの椅子に座った。
 女はスマホを操作しながら、店内から出た。
 ポケットに入れた右手をまた取り出してみると、それは先ほどと同じ色の悪い皺だらけの手。錯覚とかではないことに、背筋に冷たいものが走る。そして、優のことを思い出した。優も――同じように、「変化」したじゃないか。

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