【短編小説】昨日、きみは僕を捨てた
もう来ないで、と言われたとき、どうして僕は抗う言葉をなにひとつ言えなかったのだろう。閉じた玄関ドアは鉄のような音を立てて、彼女の世界から僕をしめだした。しばらく僕は黒い玄関をうつろに見つめて——実際は玄関ドアなど見てやいなかった。彼女の顔、僕を心底けがらわしいと厭う表情を、自傷行為のように繰り返しまなうらに描いた。
それからどうやって自分が家にたどりつけたのか、思いだせない。ただ、温かい夜がやけに暗く、黒い海の表面を歩いているような感覚がした。玄関で靴を脱ごうとしたら、スニーカーの紐が片方ちぎれていた。ベッドに座って、彩花の名前を呼んでみた。もう呼ぶ権利も場面も訪れないのだと思うと涙がでそうだったが、悲しみは胸にとどまったままで、僕の目からこぼれ落ちてくれはしなかった。
彩花に渡した手紙やプレゼントを思いだしては、今やそれは意味をなさず、彩花の手で彼女の意思で、煙草の灰を落とすような手軽さで捨てられるのだと思うと、どんな感情で受け止めたらいいのかわからなかった。もちろん、僕にとっては、それらひとつひとつは彼女との思い出とつながる大切なものだ。今や僕の手もとにはないけど。彩花からの拒絶を受け入れられないのは、彼女が僕にとってはじめてまともに付き合ったひとだからかもしれない。いや、それだけのものだろうか? 他の女性が僕の前でどのように微笑んだり、一緒に朝を迎えたときどんなふうにむくんだ寝顔を見てくれたりするのか——そんなこと描けないし、いまは描く気力もない。
——きみっておもしろいこと言うのね。まじめな顔をして、頭のなかはちゃんと狂っている。
はじめて一緒に食事をしたとき、彩花は最初に僕の仕事ではなく私生活についてたずねた。アウトドアか、インドアか、休日はなにをして過ごしているのか。よくある会話の切り口だ。僕はほとんど家で閉じこもりネットサーフィンか動画視聴して一日を潰していたから、「安部公房の箱男みたいに暮らしています」と答えた。そしたら、彩花はそろった前歯を手で隠しながら笑い、「きみっておもしろいこと言うのね」「まじめな顔をして、頭のなかはちゃんと狂っている」と言った。狂ったやつだな、と陰で言われることはあったが、「ちゃんと狂っている」とおもしろがられたのははじめてだった。僕の胸のなかに、花火が舞った瞬間だった。
彩花はSNSの投稿で見るより、はるかに輝いていた。「加工とかしないから、ブスでしょ?」——お互い知り合ったSNSを開いたとき、彩花はそう言った。いや、と僕は言って、否定以上のことが言えなかった。実物のほうがはるかに輝いて魅力的だ、と言うのは憚られた。数年前、ネットで知り合った女性に「かわいいですね」と最初に言ったら、あとでネット上に書き込まれた。「下心まるだしのきもい男」と。
女性から、女の子から、気持ち悪がられるのは慣れていたが、彩花から不快に思われたらどうしよう、といつも以上に臆病になった。それが本気になった、ということなのだろう。自分のような男には彩花の隣で歩く資格などない、と承知していても、もしかしたら、僕の返答で笑ってくれたのなら——。解散する前に次会う予定が決まったとき、僕の青写真は現実になるかもしれない、と甘い予感に酔った。
実際、それが現実となったのだ。およそ一年に満たない交際期間。でも、その間僕は彼女のことを通して、女性を知るようになったし、自分がどれだけ鈍感な人間なのか、という痛い事実を突きつけられた。一年に満たなくても、彩花は僕と付き合ってくれたのだ。それで十分じゃないか? でも僕は彩花から捨てられた翌日、彩花を抱きしめている夢を見て、アラームの音を無視した。会社に休暇をとろうと本気で考えた。
なぜ、今日が日曜でも土曜でも金曜でもない、月曜なのだろう。失恋、捨てられた痛みは、風邪や骨折以上のものだから(少なくとも僕にとっては)、休みをとる権利ならあるだろう。でも、それを理由に休みを申請しても、誰も理解してはくれないだろう。だから? たった、ひとりの女性に振られたことくらいで?——。僕の気持ちを誰も深刻には受け止めない。
通勤電車に乗りながら、女性の姿を品定めをするように眺めていた。もしかしたら彩花を忘れるられるほどのきれいな女性が現れるかもしれない。そしたら、彩花のことをただの思い出として流せるだろうか。他にもいい女性がいるのに、僕は彩花にとらわれていただけなのだと。他の女性を知らないから、彩花に執着しているのだと。
電車の窓に映る、背後にいる女の子を僕は見つけた。彼女は耳に入れたイアフォンをいじりながら、スマホに目を落としていた。客観的に見れば、彩花よりも大きな瞳で鼻筋も通っていた。Instagramの写真一覧にぱっと現れるような、人工的な顔。僕は電車の窓を見ながら、そこに映る彼女の姿をじっと見つめていた。そして描こうとした。もし彼女が僕に微笑みかけて、イアフォンを共有して、手をつないで息の湿った温度がわかるくらい近づいて——。でも、僕の視界はすべて暗闇に包まれる。彩花の甘いストロベリーの髪の香りを思いだす。はじめて顔を近づけたとき、化粧の香りより彼女の髪の香りのほうが強く感じた。もちろん、僕はその香りに酔ってめまいをしながら、彼女と唇を合わせた。
街にでると、現実感が消失する。いつもと同じ道が、まるで別の都市に降りたかのように冷たく僕を迎える。通りすぎる会社員たちを見送りながら、僕は自分のネクタイをぎゅっと握る。学校から吐きだされるようにして、僕は就職した。とくべつな肩書きがないのは、学生時代から変わっていない。普通のひとと同じように道を進めないから、僕はインターネットで自分を愛してくれる人を探していた。下心と書かれ、約束場所にいても来ない人もいた。でも、彩花は——。
僕は重い右足を前に進めた。
⚪︎
季節はずれの雪が降った夜。彩花からきた電話をとったら、彼女は泣いていた。何かあったの? と聞いても、彩花は笑って理由をあいまいにした。「生理前だから」
あのときなんで気がつかなかったのだろう。彩花が僕ひとりを見ていてくれているわけではないということを。同時並行で他の人と恋愛する女なんてクソだ、とは思えなかった。花が枯れたことさえ悲しめる彩花は遊び人とは違う。彼女が満たされたい相手はひとつ年上の数学教師で、無条件に彩花を必要とする僕は犬みたいな存在。でも、その対等でない関係を憎んだり悔しんだりなんてことは、一度もなかった。
僕は必死に彩花をなだめる言葉を探したが、見つからないから彩花と一緒に観た映画の曲をiPhone越しに流した。
——これ、なんの曲?
——この間観た映画の……。一緒に泣いたよね。もしこの子どもに会えたのなら、温かいポトフを用意するのにって言ってなかった?
——そういえば。泣くことが多くて、忘れていた。
僕は彩花に日本語訳を伝えた。今ここで別れても、100年の祈りでまた君に出会うだろう——。それを伝えたとき、彩花がぐずる音が聞こえた。僕はしばらく黙って、カーテンの隙間から見える青白い世界をぼうっと眺めていた。どうしてこんな寂しい時間に、僕らは一緒にいないのだろうか。彩花のもとに駆け寄りたい気持ちはあったが、彩花は自分の部屋に来られるのをひどく嫌がった。「君に散らかっている部屋を見られたくないから」。その言葉をずっと、愛されているからだと信じていた僕はなんてまぬけだったのだろう。
でもその自分の鈍さで僕は夢を見られたのではないか。
⚪︎
いつも仕事から終わると、彩花からのメッセージがあった。「仕事お疲れさま」。それだけの言葉で僕は彩花のいる家に帰っていく心地になった。女性社員から無視されても、自分だけ飲み会に誘われなくても、孤独を忘れ自分の居場所があるのだ、と思えた。
だから業務が終われば条件反射的にスマホの通知を確認する。彩花のアイコンを探して、彼女の近況に変化はないか、調べなければ気がすまない。幸い、ブロックはされていなかった。彩花の投稿は一昨日で止まったままだ。どこかの公園で撮った紫陽花の写真が四枚。いまでは、あらゆる疑いが浮かんで僕を苦しめ、同時に深い悲しみが残る。昨日の夜に直接言われた言葉——もうきみとは会えない。
前日に電話で彩花から「ごめん、好きなひとと付き合うようになった」と言われ、僕は混乱してなにも言えず、そのまま彩花のほうから電話を切るまで現実を認識できなかった。もちろん、夜に眠れるわけがなく、最悪な気持ちと狂うように痛む頭で、詳しい事情を聞きに彩花の部屋に——近くまで送ることはあった——突然押しかけた。部屋からでて来た彩花は髪を濡らしてバスタオルを肩にかけた姿で、僕の顔を見て眉をひそめながらもう一度ドアを閉めようとした。でも、僕はドアに手をかけ、
「……一回話がしたいんだ」
「昨日急に言われて、僕だって整理できないよ。こんなの一方的すぎる。それに好きなひと? 意味わかんないし……」
そのとき彩花の目が涙ぐんだのを僕は信じていいのだろうか。少しでも彩花が僕を憐んで、薄くなった僕との記憶が彼女の心を痛めさせたと思っても——。
「……説明なんかしても、きみとわたしとの関係は終わったんだから。どちらかが手を放したのなら、もう一緒に歩けないんだよ」
「なら僕がもう一度彩花の手を掴もうとしたら……? まだ混乱しているんだ。ちょっと部屋のなかに入れさせてくれないかな」
彩花は首を振って「だめ」と強い口調で言った。「昨日電話で言ったでしょ? わたしには恋人がいるの。ずっと好きだったひと……」
「それって、僕を騙していたってこと……?」
「そうだよ、もうきみとは会えない」
⚪︎
僕の愛し方が十分なものだったのか、確かめるすべはない。彩花があのひとと一緒に笑って、僕が入れなかった彼女の部屋で抱き合って、ふたりで映画や小説の話を共有して——まるで僕の足跡が一切ない深雪に、ふたりだけの足跡を刻んでいく。
電話をしてみようか。もうすぐ来る彩花の誕生日に「おめでとう」と言う権利くらいあるんじゃないか。僕は友だちとは違うのだし。いや、それとも元恋人は友だち以下のものなのだろうか。
もう一度彩花の投稿を確かめた。新しい投稿が更新されていた。それは——「大切なひとがわたしのもとへ戻ってきて、忘れられない子とさよならしました」——
季節外れの雪の夜に彼女と聴いた曲を流して、僕はようやく苦しみを涙として流すことができた。彼女が僕より早くふたりの思い出を忘れたとしても、この曲は永遠に消えることはないだろう。
***
<あとがき>
先月にipadを購入して、そのipadで書いたはじめての小説です。この原稿はWordではなく、フォントが美しいPenaCakeというアプリで書きました。まだ両方とも使いこなせていませんが、執筆環境としてはおしゃれになったのかなと思います。
ちなみにこの作品のタイトル、ほぼそのまま好きな歌手の作品からとりました。タイトルがインパクト強いので、そこから想像して構成も書かずに一発本番。書きながら矛盾点にぶつかり、少し修正を加えながらの執筆でした。書いていくうちに「日本語を忘れている」ことに気づき、もっと本を読もうと思いました。ゆっくり前に進みます…!
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