ついてくるもの
夜道を歩いていると、ついてくるものがあった。
街灯のしたで、私が立ち止まったら、ついてくるものの足音が聞こえなかった。消えたわけではない。もともと、足音というものがなかった。
ふりむいたら、そこに少年が立っていた。驚くのはこっちのほうなのに、なぜだか少年も一緒に驚いた顔をした。しらない少年だったが、どこか、誰かの顔と似ているような気がした。
「ついてこないで」と私はつとめて不機嫌な声をだした。
「ついてきていません」と少年は頑なにいいはった。
唇を尖らせて、また前を向いた。手と足が一緒にでてしまうような歩きかたで、どすどすと進んだ。それでも少年はついてくる。足音は聞こえないが、気配がする。気配は濃くなったり薄くなったりするので、少年との距離が近くなったり遠くなったりしているのだろう。まったく。と心でつぶやいて、またふりむいた。今度は横断歩道の前だった。
「だからいっているじゃない」今度はしんからいらだっていたので、声に不機嫌さがはっきりと滲みでた。少年は心外だとでもいうかのようにまた「だからついてきているんじゃないですって」と頑なにいいはった。
だったらなんでよ、なんでくるのよ、と詰め寄った。そのとき初めて少年の足下が裸足であることに気がついた。
「行く先が同じだからですよ。ついてきていませんってば」
そして少年は私より前にでた。信号が赤なのにも関わらず、歩道を渡ろうとした。
「ちょ、赤……」といいかけたとき、車が二台連なって、通常のスピードで歩道を遮った。少年がはねられる、と思い言葉にならない声で叫んだ。しかし、車は少年の身体を通過して、なにごとも起こらなかったように走り去っていった。
まるで、「ホラー映画か」と思った。
渡りきったとき、少年がふりむいてこちらににっと笑いかけた。遠目からでもわかる八重歯に、なにか既視感みたいなものを覚えた。少年が手招くように手をふった。信号が青に変わり、私も渡りきると、ようやくその少年のどこかなじみのある姿に、重なる人物を思いだした。
雅人くんだ、と思った。
「ねぇ、きみさ、もしかして生きていないの?」
小走りで横断歩道を渡ったため、息を弾ませながら聞いた。
少年は、怪訝そうに眉をひそめて、そしてやがて情のない感じで笑った。雅人くんと同じように。
「さあね。生きているともいえるし、そうでないともいえる」
はぐらかすような返事だった。
私は少年の着ているグレーのセーターをつかんだ。馬に乗った騎士のロゴが右胸あたりにつけられている。
「これさ、なんていうブランドだったっけ」
いいながら、またもや雅人くんのことを考えていた。
「放してよ」少年は煙たそうに私の手を払って歩きだした。行く先は、私のアパートと同じ方角だった。今度は少年のほうから「ついてこないで」といってきた。私は鼻をならし、「ついてきていません」といいはりながら、少年の後に続いた。
「あのさ、私のしっているひともきみと同じセーター着ていたんだけどさ」
少年の足は速かった。なので小走りになりながら、私はいった。冬が始まりたての夜なので、弾む息がうっすらとしろい影を残した。
「このセーターなら、俺の友達も着ていたよ。ぜんぜん話題にのぼらすようなことじゃないでしょ」
後ろ姿をみせながら、少年はいう。少し冷淡だな、と思ったが、そこも雅人くんらしい、と感じた。
「でさ、ぶっちゃけ、私、そのひとのこと……、好きだったんだよね」
これには少年も興味があったらしく、ふりむいて「へぇ」とうすい相づちを打った。
私は少年の裸足に目をやりながら(寒くないのかな……まあ生きているかもわからないひとだし)、と思いつつ、話を進めた。
「中学生の頃。三年間一緒のクラスだったけど、ずっと片思いで告白すらできなかった。その頃、私、すっごく暗くて……よくある話だよね……、男子からも女子からもいじめられていて、でもそのひとだけ、私のことをいじめなかった。名前もちゃんと……他の子たちが呼ぶ意地悪なあだ名じゃなくて、ほんとうの名前で呼んでくれた」
話しながら、こうやって冷静に当時のことを話せるなんて、もうあれからずっと遠い場所まで来てしまったんだな、と思った。そのことになんの感慨も、悲しみすらもわかなかった。
「それだけ?」少年はセーターの毛玉を払う仕草をして、片目を細めた。
「……それだけ」
少年は冷ややかに笑った。すっげ楽勝だねーお姉さん。と少年はいい、その当時の私がどれだけ雅人くんの存在が大事だったのか、理解しようとしなかった。そういうところも雅人くんらしいと思った。
「もしかしたらさ、お姉さん。そのひと、そういう厄介ごとに関わりたくなかっただけかもしれないよ? まあ、そう思うことでお姉さんはいくらか救われていたのかもしれないけどさ」
うん、と私は頷いた。ふたたび少年の足下をみたら、裸足の指先が、赤くなっていた。もしかしたら、ほんとうは寒いのかもしれないな、と思った。
「ねぇ、きみ、細くみえるけど、体重軽い?」
「は? ……まあ、そこらへんの女子とそんな変わらないよ。少なくともお姉さんよりは軽いかな」
そっか、といって少年の前へ回った。少年の腕をなかば強引に、自分の肩に乗せて、少年をおんぶした。
「や、やめっ……」
私の背のうえで、少年は少しもがいた。女におんぶされることへの羞恥なのだろうか。私はかまわず、背負い、歩きだした。少年はやがておとなしくなり、私の背に自分の身体をあずけた。
「あのさあ、靴くらい履いてきなよ。もし生きていないとしても。真っ赤じゃん、足」
少年は答えず、私の首の横に自分の顔を寄せた。
「……私の好きだったひとに、一回だけこんなふうにおんぶされたことがあるんだ。体育祭のとき。見かけどおりだと思うけど、私、運動音痴でさ、リレーで一生懸命走ったら足くじいちゃって」
「そのとき、バトンを渡す相手がそのひとだったの。バトンを渡す前に倒れて……、そしたら雅人くんが……、彼が、おんぶして保健室まで連れて行ってくれたんだ」
少年は私の話にようやく反応した。「それって今つくった話?」。
「ううん、ほんとうの話。……そのときに、はっきりと意識した。あ、これって恋なのかなあって」
ふうん、と頭のうえでなんとなく納得したふうの少年の声がした。
「きみをみていると、雅人くんのこと思いだした。なんか似ているんだよね。あ、今、気分害した?」
少年はふんと鼻をならした。「別に」。
私はちょっとだけおかしくて笑った。笑いながら、どんどん歩き進めた。ふしぎなことに少年の身体の重みは、ほとんど感じなかった。やっぱり霊とか幻とかそういう類なのかなあ、と漠然と思った。
やがて文房具店の角を曲がると、私のアパートがみえた。
「……雅人くん、どうしているかなあ」ひとりごとのようにつぶやいたが、でも、それはちゃんと少年に向けた言葉だった。少年は「おろして」といい、私の背からおりると、私と向き合った。
「……お姉さん、今でも、そのひとのこと好き?」
暗がりのなかで少年の目のひかりに射すくめられるような気持ちになった。この目。強いひかりを持った黒い目に、あの当時の私は怯えながらも、視界の端にでも自分が映っていればいいな、と思っていたものだ。でも、今はどうなのだろう。少年は少年だといいきかせながら、どこか雅人くんであってほしいと思っていた。どうしてだろう。雅人くんであったのなら、私は今、どうしたいというのだろう。
「……わかんないや。でも、今でも特別な存在であることに変わりはないよ」
正直に答えた。少年は目を細めて、私に顔を寄せた。少年の鼻が私の頬にふれた、と感じて、一瞬退こうとした身体が、寄せられ、唇が重なった。重ねたのは一度きりで、あとは、近い距離でお互いの目のなかの丸い輪郭をずっとみつめているだけだった。少年の息が、肌の匂いが、乳児のように甘ったるかった。
「……どうしたの?」
今の軽いキスが、少年の冗談だったとでもいうかのように、私は聞いた。少年の瞳の色が暗くなって、「……特別な存在だったんでしょ」と哀しそうな声でいった。
雅人くん、と私はとうとう少年をそう呼んでしまった。
後悔したのは、そう呼んだ瞬間だった。
少年を、雅人くんだと認識した瞬間に、それをつかむことができないと予感していた。少年は八重歯をみせて笑い「おせーよ」といい残して、姿を消した。
雅人くん、ともう一度呼ぶ私の声は風に紛れて消えていった。
アパートに戻る、私の背には、もうついてくるものの気配など、なにも感じなかった。
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