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ケネス・J・ガーゲン『あなたへの社会構成主義』を読み解く その2

「河童の目線で人世を読み解く」市井カッパ(仮名)です。
「すべての組織と人間関係の悩みを祓い癒すために」をミッションに社会学的視点から文章を書いております。

御覧いただき、ありがとうございます。


さて、今回は、ケネス・J・ガーゲン『あなたへの社会構成主義』を読み解く、の続きです。

前回の記事はこちら。

今回は第2章。いよいよ、社会構成主義とは何か、が語られ始めます。

第2章 共同体による構成 ─ 事実と価値

この章では、言語について扱っています。は、いいのですが、ヴィトゲンシュタインやフーコーなどの名前が出てきますので、ちょっとぎょっとしてしまいますが、実際にこの章で伝えられていることは、社会構成主義の4つのテーゼと、科学的言説についてどう考えるべきか、ということです。

後者の話については、個人的に少し気になる記述がありましたので、引用してみます。

他者をおとしめる社会的構成は、学問の世界にももちこまれています。社会科学とは、つきつめていえば、人々について描写したり記述したりする科学です。社会科学者は一般に、人々の行為を記述し、説明しようと試みます。その際、社会学者であれば自分の身の周りにいる人々に、人類学者であれば、異文化の人々に焦点をあてるでしょう。社会科学によって生み出された書物は、政治の世界へと登場し、異なる階級、文化、伝統に関する人々のイメージを作り出すことになります。

ケネス・J・ガーゲン『あなたへの社会構成主義』P.66

ここでガーゲンは、このような科学的言説に対する抵抗として、サイードの著書『オリエンタリズム』について紹介しています。

「東洋的なもの」を記述し、説明するスタイルには、東洋に対する優越感や、政治的支配の正当化などが暗黙の内に含まれているのです。

ケネス・J・ガーゲン『あなたへの社会構成主義』P.66

前回の第1章で「正当性の危機」について取り扱いました。「価値中立的な言明など存在しない」という言葉にもありましたように、何かを語るときにはその政治性からは逃れられないのです。

最近、個人的に思うのは、歴史の順番についてです。歴史というものは常に、現代に生きる我々から見たときの正当性の物語です。ですので、本来の歴史は、現在から過去に向けて語られるべきだと思うのですが、実際には、どんな歴史も過去から現在に向けて語られます。まさにこれが、正当性があるように装っている物語だと言えるでしょう。その歴史観では、語られないものは存在しないことになります。実際には、語られないものは、現在を説明するために不要と切り捨てられたものなのですから、なんとも不誠実な、そして政治的な態度であると言えるでしょう。

さて、話を戻しまして、社会構成主義の四つのテーゼについて紹介していきます。

①私たちが世界や自己を理解するために用いる言葉は、「事実」によって規定されない
②記述や説明、そしてあらゆる表現の形式は、人々の関係から意味を与えられる
③私たちは、何かを記述したり、あるいは別の方法で表現したりする時、同時に、自分たちの未来をも創造している
④自分たちの理解のあり方について反省することが、明るい未来にとって不可欠である

ちょっと長い文章なので、それぞれ何を言っているのか、確認してみましょう。

①私たちが世界や自己を理解するために用いる言葉は、「事実」によって規定されない

これについては、下記の本文の方がわかりやすい気がします。

・言語は、世界をありのままに写しとるものではありません。
・いかなる状況に対しても、無限の記述や説明のしかたがありうるのです。

そしてこのテーゼの効果効能については、下記のように示されています。

私たちがふだん、何の疑問ももたずに用いているカテゴリー ─ 例えば、性役割(ジェンダー)、年齢、人種、あるいは知性、感情、理性など ─ の多くは、一部の人々に語りえない苦難をもたらしてきました。また、宗教、国民性、人種性、経済などに関して広く世界に行きわたっている理解によって、対立、不公正、さらには虐殺までもが引き起こされてきました。社会構成主義は、こうしたカテゴリーや理解の呪縛から、私たちを解放してくれるのです。

ケネス・J・ガーゲン『あなたへの社会構成主義』P.72

言っていることはわかる気がします。私は以前、話し言葉と書き言葉について考えたことがあります。例えば、古代日本をイメージしてみましょう。縄文人が住んでいて、そこに渡来人として弥生人が来て、その後からも続々と渡来人が来て、民族的に割と平和に混血していくのですが、さて、問題なのは、その時、彼らはどうやって意思疎通していたのでしょうか?

答えは簡単です。現代に生きる我々は、書き言葉由来の言語があまりにも常識になっているので、単語や物の名前を覚えないと会話ができないと思い込まされています。しかし、お互いに正しい言語の体系など考えたこともない人たちが出会ったなら、そこで何とかしてコミュニケーションしようとします。そこで通じた言葉こそ、共通言語になっていくのです。そこには何の問題も障害もありません。

余談ですが、旧約聖書に「バベルの塔」のお話があります。人々が集まって大きな塔を作って神の元へたどり着こうとしているのを見て、神が罰として人々の言語が通じないようにしたら、人々がばらばらになって争い出して塔が完成しなかった、というお話です。このお話、人間の言語が話し言葉の言語から文字の言語になって政治的に分断されたことを言っているのではないか、と個人的には思っています。

それはさておき、このテーゼで言いたいことは、「言語の呪縛からの解放!」だということがわかります。

②記述や説明、そしてあらゆる表現の形式は、人々の関係から意味を与えられる

解放の次のテーゼは、再構築です。「関係」という重要タームが出てきましたので、本文中でも説明がされています。

本書では「関係」を、人々の間の(社会的な)関係 ─ 現実は「社会的に」構成されるというように ─ として扱いがちですが、もちろん、人間と自然との「関係」も無視できません。私たちのコミュニケーションは、酸素、植物、太陽などの自然環境に支えられています。私たちは、私たちをとりまくすべてのものから独立ではありえないのです。(中略)私たちは、決して全貌を把握することのできない関係性の総体 ─ すべてがすべてと関係しあっているような ─ の中にいるのです。

ケネス・J・ガーゲン『あなたへの社会構成主義』P.73

ここを読むと、「関係」という概念が、我々が普通に思い描く以上に広い概念であることがわかりますが、一方で、これは、つかみにくい概念であるように思います。これは言語の恣意性ともつながる話ですが、おそらく、相対的に決まるもの、というような意味合いでしょうか。相互依存的である、と言ってもいいかもしれません。この章の後半には、「何が科学的事実であるかは科学者コミュニティによって決定される」という見出しもあります。ここでは、そういうことなのかな、ということで置いておきますが、ここから見えてくる世界では、ある人が話す言葉について、それが適切であるか不適切であるかを決められると思っている人は、そこに権力を持っていると認識している人である、ということが言えるのかと思います。

このことで思ったのは、よく政治家や芸能人の発言などが、部分だけ切り取られて批判されたり炎上したり、ということがよくあるな、ということです。これは切り取る側の悪意によって、その場では許される発言が、何らかのメディアに乗ることによって「公の場でそんな発言は許せない」とバッシングされる、などというケースも多くあるように思います。その発言自体は事実かもしれませんが、それを許せなくしているのはメディアであり、その編集に影響を受けて乗せられてしまった人の問題であり、つまるところ、関係性の問題だ、ということとつながる話のように思います。正直、不倫や浮気は良いことではないとは思いますが、ただ、それは家族の問題であって、赤の他人がどうこういう話ではないのですが、なんでみんな他人の家族の問題に首を突っ込みたがるのだろうと、いつも不思議に思っています。

この項目をむりやり一言でまとめると、「言葉に埋め込まれた関係性に気づけ!」でしょうか?

③私たちは、何かを記述したり、あるいは別の方法で表現したりする時、同時に、自分たちの未来をも創造している

どのような言葉を使うのか、ということに気を使いなさい、ということを言っているようです。ただし、それは他人がどう思うかを気にしなさい、という意味ではありません。

出典はよくわからないのですが、マザーテレサの言葉として、下記のようなものがネットに出ていました。

思考に気をつけなさい。それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい。それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい。それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい。それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい。それはいつか運命になるから。

出典不明

ここで言っているのはまさにこの「言葉」のこと。伝統的な言葉をそのまま使っていると、そういう思考になり、そういう未来がやってきます。以下、引用です。

人と話をしたり、何かを書いたりしているまさにその瞬間にも、私たちは確かに自らの未来を創造しているのです。もし何かを変えたいと願うなら、「活動的な詩人」になって、新しい意味を生み出そうと努力しなければなりません。新しい未来を生み出すためには、与えられた意味を拒否する ─ 例えば、性差別者や人種差別者の言葉を無視する ─ だけではだめです。それに代わる新しい言葉や、新しい解釈や、新しい表現を生み出さなければなりません。

ケネス・J・ガーゲン『あなたへの社会構成主義』PP.74-75

この項目もワンメッセージでまとめてみましょう。「新しい未来を創りたければ新しい言葉を!

④自分たちの理解のあり方について反省することが、明るい未来にとって不可欠である

この項目の「反省」という言葉は強いですが、おそらく元の原文の英語表記は refrection、つまりは「振り返る」「顧みる」という意味合いではないかと思われます。この項目についての説明は、本文からの引用が良いかと思われます。

私たちがもし、生き生きとした明るい未来を創造していこうとするなら、私たちがこれまで、「事実」「真理」「正義」「どうしても必要なもの」として受け入れてきたものすべてを、疑う覚悟ができていなければなりません。だからといって、伝統をすべて拒否してしまえというわけではありません。それらが一つの伝統にすぎないこと ─ 歴史的・文化的に作り出されたものであるということ ─ を正しく理解し、自らの伝統の言葉で、異なる伝統を理解し、認めていこうという提案なのです。そのためにはまず、異なる伝統間に共通の基盤を形成するような「対話」を生み出していかなければなりません。

ケネス・J・ガーゲン『あなたへの社会構成主義』P.76

いよいよ「対話」というキーワードが出てきました。

話を教育の話として考えてみましょう。これまでの啓蒙的な教育の常識では、教師や先生が正しい知識を持っていて、それを生徒や学生に伝え、覚えさせ、あるいは理解させるのが正しいこと、とされていました。前提としては、生徒や学生は正しい知識を知らないこと、という前提がそこにあります。

しかし、その「正しさ」というのはあくまでも過去の世界での出来事によって、さらには、教師や先生が所属している狭いコミュニティの中での「正しさ」であって、そのコミュニティに所属していない生徒や学生にとっては、それが「正しい知識」である関係性も根拠も無いわけです。

あるテーマについて学ぶ際に、もし、未来に向けての学びにしたいのなら、そこには「知識の伝授」ではなく「対話」が欠かせません。そこには伝統的な言語に囚われない、新しい発見=新しい言葉が生まれてくる可能性があるからです。

ということで、最後の項目をまとめるなら、「過去の言葉に囚われずに対話で新しい言葉を発見せよ!」でしょうか。

最後に、四つのテーゼの、この文章なりの整理をまとめて表記してみます。

①言語の呪縛からの解放!
②言葉に埋め込まれた関係性に気づけ!
③新しい未来を創りたければ新しい言葉を!
④過去の言葉に囚われずに対話で新しい言葉を発見せよ!

さて、また長くなりましたので、このあたりで区切ります。続く第3章は「対話の力」ということで、いよいよ「対話」のお話に続きます。

現場からは以上です。お読みいただき、ありがとうございました。
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市井カッパ
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