ケネス・J・ガーゲン『あなたへの社会構成主義』を読み解く その3(完)
「河童の目線で人世を読み解く」市井カッパ(仮名)です。
「すべての組織と人間関係の悩みを祓い癒し、自然態で生きる人を増やす」をミッションに社会学的視点から文章を書いております。
御覧いただき、ありがとうございます。
さて、今回は、ケネス・J・ガーゲン『あなたへの社会構成主義』を読み解く、の続きです。
前回の記事はこちら。
今回は第3章 対話の力、から。いよいよ対話について語られ始めますが、実はこの章はたいしたことを言っていません。
ここでは、対話の4つの側面が整理されています。
構造としての対話ー生活の指針となるメタファー
ここでは単なる比喩表現そのものだけではなく、例えば、議論には戦争のメタファーが使われているとか、精神分析には考古学のメタファーが使われている、などの指摘がされています。
構造としての対話ー物語(ナラティブ)的現実
語りの形式には、「前進する語り」と「後退する語り」があると整理されています。
説得としての対話ーレトリックというレンズ
結論部分では、「客観性とは心の状態ではなく、レトリックである」とい語られています。
プロセスとしての対話―実用的な次元
ここではゴフマンとガーフィンケルの語用論が紹介され、構造だけではない対話分析が示されています。
本章をふりかえって
ここまで述べてきて、最後の段落の冒頭はこちらです。
さて、この章の内容から、この本の筆者がとても丁寧に論を進めようとしていることがわかります。批判的な読者を気にしているかと思いますが、こちらは批判するつもりはなく、何が書かれているかを知りたいだけですので、少しその部分は飛ばし飛ばし読んでいきたいと思います。
第4章 社会構成主義の地平
第4章は、社会構成主義の地平、とあります。実際に書かれていることは、人間科学の伝統的な実証研究、とされているものへの批判です。この批判の中に、前章のナラティブの話とメタファーの話が出てきます。興味深い一文を抜き書きしておきます。
第5章 「個人主義的な自己」から「関係性の中の自己」へ
この章は革命的な転換が行われる章になっています。引用してみましょう。
そして、ここから「新しい自己概念」が探されることになります。そのために、「象徴的相互作用論」「文化心理学」「現象学」が取り上げられるのですが、その解説部分は省略します。そして、最終的にバフチンの考え方が紹介されます。
この章の最後には、下記のような結論が示されています。
続く第6章から第8章は、「理論と実践」の1~3、という位置づけになっています。
第6章 理論と実践(1)ー対話のもつ可能性
再び対話の話が登場します。この章では「変化力をもつ対話」という概念が語られています。2つの社会実験の事例が紹介されますが、いずれも対立をどのように乗り越えるか、という話し合いの実験でした。印象的な一文を引用しておきます。
我々が「自己」だと思ってこだわっているもののほとんどが、過去の人間関係や経験から生み出された仮の「自己像」です。新しい関係、対立関係の先に、新しい関係による「新しい自己」が生まれるかもしれない。そんな柔軟な態度が求められそうです。
第7章 理論と実践(2)ー心理療法・組織変革・教育・研究
ここではセラピーや教育について語られますが、この章も最後のふりかえり部分より、印象的な文章を引用しておきましょう。
自分を世界から切り離し、世界について語ることは、世界にとってはあまり意味のあることではありません。自己満足と言ってもいい。旧来の学問的な態度はそうした自己満足の世界に留まっていたのではないか、それが対立を生んできたのではないか、という強烈な皮肉が込められているように思います。
第8章 理論と実践(3)ーマスメディア・権力・インターネット
こちらも同様に、最後の文章を引用しておきます。
ここまで見てきて、理論と実践では、既に社会構成主義的な自己と関係の考え方に立った方が、実践で使える、ということを実例を挙げて説明してくれていたようです。
第9章 「批判に答える」
いよいよ最終章です。対話を重視している社会構成主義だけあって、書籍でも批判に答えようという試みのようです。こちらも印象的な文章を引用しておきます。
この例として、筆者はセラピーやヴィジュアル・アート(視覚芸術)を挙げています。つまり、伝統的な学問分野以外についての学問を行うための基盤を、社会構成主義が用意してくれている、ということになります。
さて、ここまで全体を読み終えて感じるのは、社会構成主義が単なる筆者の思いつきから生まれてきたものではなく、哲学や思想、社会科学、人文科学、そしてインターネットに代表されるテクノロジーと環境の変化によって、だんだんと変化してきている認知を言語化したものだ、ということです。
最近、メディアの偏向報道が話題にもなっていますが、メディアがA=Bだと言っているからといってそれを鵜呑みにするのではなく、A=CやA=Dと言っている人が居る可能性もあり、そのどちらもに正当性などというものはないのだ、という考え方は、メディアリテラシーを高めるためにも有効な考え方のように思います。
その上で、この本は、対話の質についても示唆を与えてくれるような気がします。意識してかしないでか、私たちの日常では、「どちらが正しいか?」というフィールドに持ち込みたい対話で満ち溢れています。むしろ、「自分は正しいのだからあなたは間違っている」という意識を持って話しかけてくる人まで居ます。それはとってもナンセンス=センスがないという気もしますし、そもそも、あなたと対話する意味ありますか?という気になってしまいます。
というわけで、この考え方の実践は、NVC(Nonviolent Communication=非暴力コミュニケーション)などにも関連してきそうな考え方だな、と思った、というところで、今回はここまでです。
現場からは以上です。お読みいただき、ありがとうございました。
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