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ドラッカーの言う社会サービスの意味を追求していったら、企業別労働組合の可能性に気づいてしまった

下記の前回の記事に入れようと思ったのですが、ちょっと話が限定的になってしまうと考えて、分けることにしました。

ドラッカーが『ポスト資本主義社会』の第9章「社会セクターによる市民性の回復」中で、下記のような記述をしていることを、前回は紹介しました。今回は引用で紹介します。

これからは社会的なニーズが二つの分野で高まる。一つは、伝統的に慈善としてとらえられてきた救済サービスの分野である。貧しい人、障害のある人、寄す辺なき人、害を受けた人を助けることである。もう一つは、コミュニティと人に働きかける社会サービスの分野である。特にこの第二の分野において、社会的なニーズが今後急速に高まる。

『ポスト資本主義社会』P.214

コミュニティと人に働きかける社会サービスの分野、というのがよくわからないかと思いますが、ドラッカーはこの後、詳細は説明せずに、政府がこれを担うことは無理、という話を展開します。その後に、今ではおなじみのサードセクター、という言葉が出てきます。

過去四〇年間、政府自らが実行者となって社会的な問題を解決しようとしたアメリカの政府プログラムのうち、意味ある成果を生み出したものは一つもない。これに対しNPOはめざましい成果をもたらしている。

『ポスト資本主義社会』P.216

今後、これら社会セクターに属するコミュニティのNPOの成長が、政府の方向転換を可能にするための重要な一歩となる。NPOは意義ある市民性の回復の核でもある。今日メガステイトが市民性を圧殺しつつある。この市民性を回復するには企業という民間セクターと政府という公共セクターの二つのセクターに加え、第三のセクターが必要になる。それが社会セクターである。

『ポスト資本主義社会』P.217

ドラッカーの考えを簡単に図に示してみました。

『ポスト資本主義社会』第9章「社会セクターによる市民性の回復」より筆者作成

社会セクターは政府や企業から社会的なニーズへのソリューションの実現を委託されていて、市民に対して、救済サービス、社会サービスを提供する活動に市民をボランティアとして参画させるにより、市民性を回復させ、政府活動を機能させられるようになる、という図式です。企業に対しても質の高い労働を提供するという矢印も見えるかもしれません。

ちなみにこの3つのセクターという考え方ですが、ドラッカーが所属していると思われる「文化セクター」を加えて4つにした方がいいんじゃないかな、という話をT・パーソンズのAGIL図式の理論に当てはめて考察した文章も書いているので、こちらも御参考まで。

さて、まだ2つの社会的ニーズのうち、社会サービスが実現しようとしているものがはっきりとしません。次にドラッカーが扱うのが「コミュニティ」という言葉です。

人はもはや、生まれた場所や階級や文化、あるいは親や兄弟や従兄が暮らすところにはとどまらない。ポスト資本主義社会において必要となるコミュニティ、特に知識労働者にとって必要となるコミュニティとは、近しさによって押しつけられるものでも、孤立のおそれから強制されるものでもない。意志と思いやりに基づくものである。

四〇年前、私は、そのようなコミュニティは働く場所において実現されると考えた。『産業人の未来』(一九四二年)、『新しい社会と新しい経営』(一九四九年)、『現代の経営』(一九四五年)において、一人ひとりの人間に対し、位置づけ、役割、責任を与える場として職場コミュニティを論じた。これは日本ではかなりの程度実現された。しかし、その日本においてすら、職場コミュニティは長続きしそうにない。少なくとも知識労働者については長続きしそうにない。

今日では、日本の職場コミュニティといえども、帰属意識よりも不安に根差す部分が多かったことが明らかになっている。日本では、年功序列の賃金体系をもつ大企業につとめる者が、三〇歳を超えて職を失うならば失業同然となった。しかしそのような状況は、日本が一九六〇年までの職不足から人手不足の時代へと変化した結果、急速に消え始めている。

『ポスト資本主義社会』PP.220-221

さて、思いがけず日本の例が出てきました。この日本の職場コミュニティの例ですが、この後、ドラッカーは「西洋では、職場コミュニティは一度として根を下ろさなかった」と書いています。このドラッカーが見た日本の職場コミュニティというのは、具体的にはどういうものなのでしょうか?

ドラッカーの「私の履歴書」である『ドラッカー20世紀を生きて』の巻末に年表があるのですが、そこにちょっと面白い話が書かれていました。

一九四七年(三十七~三十八歳)
・ゼネラル・モーターズ(GM)で米産業史上で初めてとなる大規模な従業員意識踏査を実施。この結果を踏まえて「品質管理(QC)サークル」の導入を試みるが、全米自動車労組(UAW)の反対にあって頓挫する。

『ドラッカー20世紀を生きて』P.166

この話が何が面白いかと言うと、これまたどこかで記事化しようと思っていてできてない記事の話になるんですが、QCサークルというのは、もともとアメリカには存在していない考え方で、日本発の仕組みだということです。

ちょっと細かい歴史の話を羅列しておきます。

  • 法政大学産業情報センター編『日本企業の品質管理 経営史的研究』(有斐閣)によると、QCサークルとは、「同じ職場内で品質管理活動を自主的に行う小グループ」で、「この小グループは全社的品質管理活動の一環として自己啓発、相互啓発を行い、QC手法を活用して職場の管理、改善を継続的に全員参加で行う」ものである、といいます。

  • 小暮正夫『日本のTQC』(日科技連)によると、1955年11月の座談会(『品質管理』巻1号掲載)を契機に、「職組長など監督者層の人々を加えての職場末端への品質管理活動の組織的展開」が始まり、「職組長に対するQC教育や企業内QC活動への参加要請」となって現れ、さらに作業を直接担当するオペレーター層の人々にも広げられたそうです。

  • 1962年4月、雑誌『現場とQC』(1973年より『FQC』1988年から『QCサークル』)が創刊された際に、提唱され、この雑誌を使って、現場の品質管理問題の検討をし、同誌の輪読会を開いてもらうことが雑誌創刊当初の目的だったそうです。

  • 再び、法政大学産業情報センター編『日本企業の品質管理 経営史的研究』(有斐閣)によると、「QCサークル」以前から各社で小集団活動は行われており、そこには「品質管理スタッフと職長による活動」と「QCサークルに近い形の小集団活動」が混在していたそうです。

  • ちなみに日本のQCサークルは、1966年 EOQC ヨーロッパ品質管理機構 第10回大会において、ジュラン博士の提案により、QCサークル運動が同博士により激賞、推奨、見習い勧告の辞とともに世界に紹介され、この運動が国際的に広がる契機となったそうです。(小暮正夫『日本のTQC』(日科技連))

整理しましょう。日本のQCサークルは、1950年代から60年代にかけて生み出され、1966年のジュラン博士の紹介により、世界に広まった。

ドラッカーがGMにQCサークルを導入しようとしたのが1947年だとすると、これはいったい、どういうことでしょうか?

この部分に関わる『ドラッカー20世紀を生きて』の本文も、少し長いですが、引用してみます。

1947年、彼は米産業史上では初めての大規模な従業員意識調査を実施。「私の仕事と私がそれを気に入っている理由」と題した作文コンテストで、従業員が会社や上司、仕事に何を求めているかなどについて聞くのを目的にした。私も審査員に加えられた。

大成功だった。従業員の3分の2以上、人数にして30万人の応募があった。まさに情報の宝庫。従業員が会社や製品との一体感を求め、責任を持ちたがっていることは明らかだった。「従業員が欲しているのはカネだけ」という通説は的外れだったのだ。

コンテスト自体は失敗だった。30万人分の作文を読むのは不可能だからだ。それでも、各審査員はそれぞれ数千人分の作文に目を通し、読めなかった分はGMのスタッフが分類してくれた。

これを踏まえ、ウィルソンは「職場改善プログラム」を導入しようとした。現代風に言えば「品質管理(QC)サークル」で、成功すればその元祖になるはずだった。

ところが、このプログラムは頓挫し、コンテストについての報告書もまとめられなかった。全米自動車労組(UAW)が猛反対したからだ。コンテストは今後はやらないという条件で、1948年にUAWはストライキをやらずに賃金回答をのんだほどだ。

なぜか。私はコンテストについて、米国で最も影響力を持つ組合指導者であるUAW会長のウォルター・ルーサーと交渉した時、「経営陣が管理し、労働者が働く。労働者に対して管理者としての責任まで負わせるということは、労働者に大きな負担をもたらす」と言われた。

その後もウィルソンはあきらめず、会長のスローンに対し、従業員担当副社長の新ポストを設け、それには私がふさわしいと進言した。数年後にウィルソンが国防長官へ転じると、この話は立ち消えになった。

ウィルソンはコンテストで得た貴重な資料が倉庫へ葬り去られたことを残念がった。しかし地球の裏側でよみがえった。1950年代前半に、私の助けを借りてコンテストの結果はトヨタ自動車へ持ち込まれ、同社の終身雇用や労使協調政策の面で生かされたのだ。当時のトヨタは労働争議に見舞われ、創業者の豊田喜一郎が社長辞任に追い込まれるなどの苦境にあった。

『ドラッカー20世紀を生きて』PP.122-124

あくまでもドラッカーが語っている話ですので、どこまで本当かはわかりませんが、日本のQCサークルの考え方の元がGMの作文コンテストの成功と失敗にあった、というのは面白い話です。

面白いと言えば、日本の例ですが、こういう面白いアンケート結果がありましたので、紹介しておきます。これは、「新版品質管理便覧」日本規格協会 (1977)という書籍に載っていたもので、日本のQCサークル活動をやって感じたメリットについて聞いたものです。

「新版品質管理便覧」日本規格協会 (1977)より

なんと、ナンバーワンが「人間関係が良くなった」だというのです。おそらくこのアンケートは複数回答不可でひとつだけ選ぶもののようですから、4分の1の人がこう答えていることになります。

さて、このQCサークルですが、この活動こそ、ドラッカーが日本における職場コミュニティのイメージの原型となってものではないのかな、という気がしています。ちなみにドラッカーの言うように、この日本のQCサークルは、工場などの現場では機能したのですが、新QCとしてホワイトカラーと呼ばれる事務屋さんの領域に広がった後、形骸化して消えていってしまいます。(この辺の話はまた別途、記事にします。)

さて、話を戻します。『ポスト資本主義社会』の第9章の最後では、世界の国々では、それぞれ状況が違うが、共通して社会セクターの構造が違ってくる、と書いていますが、そこでも、日本に関しては、

日本では、職場コミュニティが、最も関心のある中核的コミュニティでありつづけるだろう。

『ポスト資本主義社会』P.226

整理すると、

日本では、職場コミュニティが、最も関心のある中核的コミュニティでありつづけるが、しかし、それは帰属意識よりも不安に根差す部分が多かったことが明らかで、日本では、年功序列の賃金体系をもつ大企業につとめる者が、三〇歳を超えて職を失うならば失業同然となったからであって、しかしそのような状況は、日本が一九六〇年までの職不足から人手不足の時代へと変化した結果、急速に消え始めている。

となってしまいます。もしかして、今の日本の職場コミュニティって空洞状態?

で、実際の現場はどうであるのだろう、と、考えてみることにしました。自自分がコーチとしてコーチングしたり、過去の研修講師として回った会社を考えたり、知人との雑談の中で出てきたことを思い返して考えてみて、そうしたときに、おや、もしや、ここに可能性があるのでは?と思う事例がみつかりました。

それは、職場に関係があり、しかもコミュニティ機能が果たせるものっていったら、それは今や、企業別の労働組合しかないのでは?という考え方です。

よくわからない方のために説明しますと、先ほどのドラッカーの例で、全米自動車労組(UAW)が猛反対した、という表現がありましたが、これは要するにその産業に属する社員の方が会社の垣根を超えて入る労働組合です。

もちろん、電気労連など、そういう団体も日本にはありますが、日本の企業の場合、企業別に労働組合があり、これを企業別組合と呼んだりしています。

私の知っているある会社さんは、経営的には一時期、とんでもないことになりましたが、その後、業績は復活しています。この会社はいわゆるスキルアップの社員教育、研修を労働組合が担っている部分が大きく、その結果として、社員同士がとても仲が良い印象です。こういう社員さん達の雰囲気があると、業績悪化しても回復できるんだろうな、と思ったものです。

企業別労働組合がドラッカーの言う「社会的サービス」の2つニーズのうちの1つ、「社会サービス」すなわち、「意志と思いやりに基づくコミュニティ」の機能を果たしていれば、そこに所属している人々が市民性を回復できているのでは?と思ったのです。

変な話ですが、労働組合というのはもともとは社会主義的と言いますか、どちらかというと全体主義的な発想で、マルクスの考える資本家との対立の中で生まれてきたものです。しかし、現在の世の中では、株も一般人が買えますし、なんなら社員持ち株制度なんかがあって、資本家ー労働者の構図が崩れてしまっています。そういう思想的根拠が崩れてしまっていても、社員が活き活きと働き、社員の家族が幸せであり続けられるように、とミッションを掲げ、各企業で労働組合が社員から組合費を取って成立しています。

となると、もう変にマルクス主義とかを活動の根本に据えることを諦めて、社員からの組合費と言う会費を取っている会員制度であり、社会サービスへの社会的ニーズを満たすための存在、と定義づけた方が良いのではないか、と思います。

日本の経済界では、なにやら高齢者の年功序列制度に耐えきれないからなのか、ジョブ型と称して名ばかり管理職を管理職から外す動きもあるようです。管理職ではないのなら、これは組合員の対象になってもおかしくないですし、別に資本家との対立ではないのですから、管理職が組合に入ってもおかしくないのではないか、と個人的には思います。

そう考えてみると、日本の労働組合法はいかにも古くさい気がします。

この法律は、労働者が使用者との交渉において対等の立場に立つことを促進することにより労働者の地位を向上させること、労働者がその労働条件について交渉するために自ら代表者を選出することその他の団体行動を行うために自主的に労働組合を組織し、団結することを擁護すること並びに使用者と労働者との関係を規制する労働協約を締結するための団体交渉をすること及びその手続を助成することを目的とする。

労働組合法第一章 総則(目的)第一条 

ここの目的に、「労働者のウェルビーイングを高めるため」っぽい表現が欲しいところです。

ちなみに余談ですが、第3条には労働者の定義が書いてありまして、「職業の種類を問わず、賃金、給料その他これに準ずる収入によって生活する者」とあって、この表現に従うと、管理職を組合から外す理由にはなりませんね。

ということで、職場コミュニティの再生が期待できない大企業にお勤めを希望されていて、若い方で就職先を選ばれる方は、労働組合がちゃんとコミュニティとして機能していて、社会サービスを提供してくれている会社に就職することが、もしかしたら後悔しない会社選びになる時代がやってくるかもしれません。

現場からは以上です。

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