他人への認識について考えてみた

最近考えていた哲学的なことを書いていきます。

私は哲学を学んだことはなく、Wikipediaで数年前に読んだ程度の知識しかありません。(読んだ当時も理解していない)
哲学と関わることがあるとすれば、アニメ・ゲーム・ラノベ等で触れる程度です。

今回のnoteも特に内容がないものになっています。


〇主観的な世界

私にとっての世界とは目や耳といった器官によって光や音を脳が認識したものであり、厳密に世界そのものを感じている訳ではない。
つまり私にとっての世界とは私の中にしかない主観的なもの。

たとえ夢であっても私が真実だと思えばそれは真実。逆に私がそれを偽物だと思えばそれは偽物になる。(私の主観的な世界での話)

〇連続性・因果性

時間や空間とは複数の情報から「時間がたったんだな」とか「距離が離れてるんだな」とかっていう推測から生まれる感覚。
例えば2つの眼で見た像を統合してそのズレから立体を認識している。
つまり複数の情報から連続性・因果性を見つけて世界を認識している。

〇その人をその人と認識するということ

私の主観において個人を認識するということについて考えてみました。

◆人格の構成要素
人格とは個性とも言いかえれると思っている。
その人がどんな言動・行動をするかが個性。
”どう感じて、どう思って、どうしたいか”が人格ではないかと思っている。

「知覚」出来事をどう感じるか
「思想・思考」感じたとこについてどう思うか
「意思」思ったことに基づいてどう行動したいか

「思想・思考」は知覚の積み重ね、つまり記憶・経験とかが影響を与えている。「知覚」や「思想・思考」の積み重ねで「意思」は出来ている。
「知覚」する内容は周りの環境や生まれ・身分によって大きく変わるので影響は大きい。


◆目の前の人物をAさんであると判断するには

例1:特殊メイクをして全く違う姿になっているAさんを街で見かけたら、私はAさんとは認識できない。つまり私の主観においてそれはAさんではない。しかし会話をすればAさんであると判断できるようになるから、私の主観においてAさんになる。

例2:街でAさんと全く同じ見た目の人を見かければ、私はその人をAさんだと認識する。しかし会話をしてAさんではないと判断すれば、私の主観においてAさんではなくなる。

二つの例から分かるのは対面した瞬間にその人が誰かということを判断する要素は外見や姿。しかし会話の内容に外見との齟齬があれば、会話で感じたことを外見より重要視して、誰かということを判断する。

姿にしても会話にしても”自分が知っているAさん”と目の前にいる人物に共通点を見つけて判断している。「自分の記憶」と「目の前の人物」という情報に連続性・因果性を感じるかどうかが重要ということ。

つまり私の世界(主観)においてAさんをAさんたらしめるものとは、私の認識しているAさんとの連続性であると言える。


※ここからは更に主観的な話かつ感じ方の話になります。


◆AさんをAさんたらしめる要素
先ほど会話によってAさんであると判断すると書きましたが、どういった要素で判断するかについて考えます。

・DNA等の変化しようがない身体的な情報を確認する
・Aさんしか知らない事を知っているか確認する

上記の2つの要素を確認すればAさんであると言えるかもしれません。
しかしAさんであると感じるかどうかは別だと思います。

例3:数年ぶりに再開したAさんは平気で嘘をついたり、他人を騙して利益を得るような自己中ごみクズ人間になっていた。昔は他人のためになるようなことを最優先に行動したり、他人にやさしくあろうとしていた良い人だった。

例4:Aさんが記憶喪失になってしまった。自分とAさんだけの思い出も覚えていない。しかし、話していると落ち着く雰囲気や周りに気配りするようなところは変わっていない。

例3の場合、私は戸籍や物理的にその人物がAさんであっても、別人のように感じてしまうと思います。例4の場合、たとえ記憶が無くても考え方や行動の指針がAさんと同じであればAさんだと感じるでしょう。

余談ですが漫画等で人格の入れ替わりみたいな展開ってあるかと思いますが、登場人物たちは肉体よりも人格のほうを優先して人物を判断することが多いのも同じことだと言えるのではないでしょうか。

つまり私の主観において「その人」だと感じるために重要な要素とは人格であるということ。

◆どこまで消えたらAさんはAさんでなくなるか
人格の一部でも消えればAさんでなくなる。
私の中では人格だけが、その人をその人たらしめる。

姿が変わっても
共有できる会話が変わっても
人格に連続性があると私が認識すればAさんであると言える。

余談・雑感

◇他人に対する認識について書きましたが、自分を自分と認識するのも同じだと思います。記憶にある過去の自分と現在の自分に連続性を感じるかどうか。

◇例に記憶喪失をあげましたが、実際には人格が変わってしまうことがあるんでしょうか。変わるとしたら、変わったあとの人格がその人の本質的な性質といえるのか。変わらないとしたら人格の形成に記憶はそれほど重要じゃないということなのか。

◇これは言葉遊びみたいなものだけど「我思う、故に君在り」みたいな考え。思考する自分だけが確かなものというデカルトの考え「我思う、故に我在り」、その確かである自分が認識する君も確かなものみたいな。結構傲慢な考え方だけど。

◇多分世界に必要ないものなんてない。けど全部が必要なものなら全部いらないものと一緒になってしまう。(全てのものの価値が一定になってしまうから)だから、どこかで線を引かないといけない。みたいな話を『素晴らしき日々 〜不連続存在〜』というPCでプレイする年齢制限つきアドベンチャーゲームで読んだ気がする。こういう全てが〇〇なら、価値が一定になってしまうっていう考え方は応用が利きそう。素晴らしき日々は私の思考に多大なる影響を与えている気がする。

◇他人を理解することは不可能だし、他人はどこまで行っても他人でしかない。だからこそ意思を言葉にしたり、手を伸ばすことには意味がある。みたいなことも考えたけどうまくまとまらなかった。

◇最近、こういう思考をする時間が増えたきっかけの一つがシャニマス。
【我・思・君・思】というカードでは幽谷霧子さん(右)と白瀬咲耶さん(左)が「我思う、ゆえに我あり」について考えたりする内容です。
これを読んでいるあなたもシャニマスやろうな。

デカルトさん



ちなみに私は今回書いた内容を全て信じていたり、行動の指針にしている訳ではありません。こんなnoteを書いていながら、こんなこのを言うのもあれですが。

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