100人いたら100通りで、私は少年少女合唱団
能面をかけること。
男性が女性になるために面をかけるとか
女性だから面をかけないとか
そういうことではないらしい。
例えば『熊野』では
熊野という人を演じるために面をかける。
そして100人いたら100通りの熊野があるという。
それでは同じ役者が演じても、その日そのときによって違う熊野が出てくるかもしれないということか。
びっくりして、しばらく声がでなかった。
さて、四回目のお稽古が終わった。
稽古中、先生の話を必死に理解しようとするが
その場ですぐ「なるほど、わかりました!」と言えることばかりではない。
むしろ、ほとんどの場合において、先生の言葉は耳から入ったはいいが消化されずに頭の中で一人運動会のように忙しく走り回っていて、ちょっと待ってちょっと待って! と一旦ストップをかけないといけないという具合だ。とりあえず聞こえたままメモをしておき、後から辞書やら本を引っ張り出してきては、ああこれはこうで、あそこでおっしゃっていたのはこういうことかとゆっくり整理と復習をしている。
例えば、最初のお稽古のとき、うみじ、うみじとおっしゃるのでなんのことだろうと思っていたら、『産字(生字)』であることがわかった。
ある音を長く延ばして謡うときに延ばす母音のことを言うらしい。
これがまた難しく、よし、ここも延ばすのだなと思っていたら「いいえここは延ばしません」ということが何度かあり、記号の記憶がまだうまくいっていない。
そして、謡の発声が全然わからない。
自分がやっていることが違う、ということはわかるのだけれど
何をどうしたらあのように地面から響いてくるような声が出るのかが謎だ。
「びわまめさんの今の謡い方は、ちょっと少年少女合唱団みたいですね」
この間はそんなことを言われ、恥ずかしいやら悔しいやらで隠れたくなった。謡ではもう少し低く太い声が必要なようだ。
先生の話す声と謡のときのそれは別人のように違い、謡のときは音が前だけではなく、体の中や後ろまで響いているような感じが画面越しに伝わってくる。あれは一体なんだろう。口まわりの動きもなんだか全然違う。
謎だらけだ。しかし、わからないなりにもいろいろ試してみる必要がある。
この年末年始は練習がんばろう!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?