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"貧しい人"というコトバ。

衆議院選挙が始まった。

「貧しい人」や「低所得者」に優先的に給付を、とか「一部の金持ち」や「富裕層」への課税を、といったことが、語られる。

その意見自体は、一定の説得力を持っている。

ただ、ただ、「貧しい人」「豊かな人」といったコトバに、なにか違和感を感じていて、使いたくない気持ちがある。

その理由について、今朝、ふと、気がついた。

それは…

「貧しさ」は本来、「人」に属するものではないのだ、ということ。

その人の立っている環境が「貧しい」のであって、その「人」に属しているのでない、ということだ。


「貧しい人」はいない。

いるのは「貧しい環境に置かれている人」なのだ。

生きていくのに必要なお金が得られない、体験したいことができない、力になってくれる人がいない…そんな環境が貧しいのであって、その人が貧しいのではない。

そう考えると、問題は、その人が「貧しい環境から脱することができない」ことなのだ、と気づいた。


同じように、「豊かな人」というのもいない。

「豊かな環境にいる人」がいるのだ。

「豊かな環境にい続けることができる人」が。


このように考えると、問題は、「貧しい環境にいる人」と「豊かな環境にいる人」が固定化していること、すなわち「貧しい環境にいる人」が「豊かな環境にいる人」になれない、ということではないかと思う。

そして平等とは、「豊かな環境にいる人」が「貧しい環境にいる人」に施すことではなく、「貧しい環境にいる人」が「豊かな環境にいる人」になれること、ではないかと。


ところが、「貧しい人」「豊かな人」というコトバを使うにことによって、貧しさや豊かさが、その"人"に属するかのような感覚を増長してしまっているかもしれない。自分自身に対しても、固定的なイメージを強めてしまっているかもしれない。

と思うので、やはり、もう少し、慎重にコトバを選ぼうと思います。


以上、今日の僕の気づきでした。

お読みいただき、ありがとうございました。
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