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【第一回】日本の現代福祉の原点は長崎にあり 〜岩永マキと福祉〜

福祉の基礎は長崎の浦上養育院によって築かれた。

長崎には浦上地方という場所がありますが、全国・全世界的に知られているのは、原爆が落ちた場所だということで知られています。しかし、同じ浦上地方にもう一つ日本の福祉にとって非常に重要な場所があります。それが浦上養育院です。浦上養育院とは、岩永マキがもともと孤児を引き取り、約900人以上を育て上げた孤児院のことです。その当時は、子部屋と呼ばれていたそうですが、現在もその思いを受け継ぎ、児童養護施設として、運営されています。

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岩永マキについて

岩永マキは1849(嘉永2)年3月26日、浦上山里村に生まれる。浦上山里村のほとんどの住民は禁教下にもかかわらず、キリシタンであったため、岩永マキもキリシタンになった。その後1867年に浦上四番崩れ(崩れとは、密かに信仰を守ってきた組織が検挙されること)が発生し、マキは1869年に岡山へ流罪(当時のキリシタンたちはこの流罪のことを「旅」と呼んだ)となった。その4年後、明治政府が国際的な非難を浴びたため、禁教令を解いたことで、マキはまた長崎の浦上へ帰ってきた。その次の年、伊王島で赤痢、蔭ノ尾島で天然痘が流行し、ド・ロ神父らが救護活動を始めた。そこに加わったのがマキである。この時に孤児と出会い、浦上に家を買い、孤児を受け入れることで救済活動を始めた。これが浦上養育院の始まりである。

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福祉事業の始まり

岩永マキが始めた浦上養育院は、日本最初の児童施設となり、近代の社会福祉の先駆けとなりました。その後、児童福祉の父と呼ばれる石井十次が1887年に孤児院を創設しました。明治に入ってから社会福祉などの考えが浸透し、政府の政策にも少しずつあらわれていきました。岩永マキは地元では慈善婆さんと呼ばれるほど長崎での活動を活発化させていきました。当時の新聞にもそのような記述があります。

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現在も続く、岩永マキの思い

岩永マキが設立した浦上養育院は約150年経った現在も岩永マキの思いを継承しながら、ずっと続いている。第二次世界大戦中には、同じ浦上地方に落とされた原爆によって、一度全壊したが、その2年後に再建された。岩永マキが浦上養育院を始めた当初は、医療技術も発達しておらず、孤児を受け入れてもすぐに亡くなってしまうことが多かったそうだ。それでもおよそ900人以上の孤児を引き取った岩永マキは、日本の福祉を発展させるための重要な第一歩を踏み出した女性であることは間違い無い。

【参考文献・資料】

徳永幸子(2013)「岩永マキと石井筆子の福祉実践の時代背景」
小坂井澄 (2007) 『お告げのマリア:長崎・女部屋の修道女たち』聖母の騎士社.
中村文則(2020)「逃亡者」幻冬社.
社会福祉法人うみのほし会 「児童養護施設 浦上養育院」
長崎新聞 「明治初期・長崎 孤児養護の先覚者 岩永マキ 920人養育か 戸籍簿、名簿 施設で発見」

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