海とか_m
さいきん仕事がつまっていて日記を書く時間も本を読むヒマもない。すべて自分の意志力が低いせいだ、それで順調。
しかし土日は遊んでいて、先先々週は山(中央アルプス・空木岳)、先々週は海(伊豆下田の入田浜、吉佐美大浜)、先週は山梨の温泉めぐりに行ってきた。今週末も連休で山に行きたいところだけどさすがに休まないと倒れそうな気もする。 追記:今週末はさすがに家を片付けたりしてた。
下田、海
伊豆下田の海は9月になってもクラゲがいないので入れるのがすごい。水はきれいで、水温高く、遠浅ですばらしかった。ただしシーズン終了で見張りの人がいないので要注意。(波は不要、という場合は九十浜へgo。シュノーケルで魚が見えるよ。)
その日のコンディションにもよると思うけど、入田浜はいい波がつぎつぎと来る、ことが多い気がする。サーファーでなくてもハーフボード借りて、身長を超える、怖いような波に狂喜しながら波乗りして不可抗力によって浜に打ち上げられるのは、お腹の底から楽しい。
波がもちあがって、波が折れていく。鍵盤を端から端まで弾くみたいに。ちょうどいいタイミングの波を待ち望み、見送り、待ち望む。サーファーの人たちは毎日こんなことをしているのか、うらやましすぎるよなぁ。
そして泳ぎつかれた夜に目をつぶると、まな裏には波の残像が映り、「踏み外し faux pas」のような波の体感がよみがえり、体は重く快い熱をもっている。ほとんど自動的に意識を失う、小学生みたいにだ!――もはや新鮮なくらいの眠気。
*なお入田浜のFermenCo.ていうピザ屋さんはたいへんおいしくてピザばっかり3種類も食べてお腹いっぱいになってしまった。下田ではtabletomatoという地元の野菜を使ったレストランに行ってみたかったんだけどちょうどお休みで残念だった。こんど行きたい。
9/6 エドワード・ヤンの恋愛時代/うそはほんとう、ほんとうはうそ
パンフレットに濱口竜介が、まー、アルファにしてオメガみたいな映画評を書いているので(そんなにお話のコアの種明かしをしていいのか!?と思った…ありがてえありがてえ…)、見たんだけどなんかよくわかんなかった、という人はそれ読めば全部わかるわかるわかる……(ぐるぐるの目)。
原題の「独立時代」が内容にはふさわしいが、「独立時代」じゃ人呼べないからしかたないか。多くの登場人物が依存的関係から独立し、新しい水平的関係を結び直していく話だ。最後が粋でキュートだよね。
*ところで私がちょっとよくわからなかったのは、モーリーはアキンを愛していたのか、ということで、モーリーのふるまいこそアキンをあなどっているが、(本作について、多くのあなどりの交錯、ということを鷲谷花さんがツイッタで述べてて面白かった)、モーリーのセリフで「愛しているのよ!」って言って、それを偶然アキンがきいてしまうシーンがあるよね?(あれ私の勘違いかな・・・)。モーリーは最後にアキンになにを言おうとしていたんだろうか、(ふつうに考えれば会社を畳むことだけど)。モーリーはどのようにして自分の本当の気持ちに気づいたんだろうか。そこがちょっと消化不良だった。なにか見落としているんだろうと思う。
話の転換点となる「小説家」に起こる一種の天啓が、めちゃくちゃコミカルでアホっぽく見えて笑える(じっさい笑ってしまった)ところがすごくいい。アホのなかに一抹のポエジーが宿る、というか、ポエジーというのは他人から見ればアホっぽい(――というかたちでしか、よく訓練されたわれわれはそれを受容できない。特にこの話においては)。なにか、トラジコメディに似た造語が作れそうな気がする。すでにあるかな。
福田村事件(森達也監督)
ヒットしているようでよかった。いろいろ細かい文句はあるけれども(これはある人とさんざん話したのでカット)、まずこういう話を劇映画にするだけでもすごいし、映画としてちゃんと面白い、考えさせられる作品になっていたと思う。そして配役がすごいよかった。
話足りなかったことでいうと、方言や言語のちがい、聞き取れなさやわからなさを観客に「体感させる」ところは非常にうまいと思った(もっとやってもよかったと思う)。というのも見ている(標準語話者の)側からすると千葉のなまりもかなり聞き取れず、あんたら五十歩百歩だよ…と思うし、であれば一段階上から見たら、われわれはお互いにとってバーバリアン(バルバロイ=醜い言葉を話す者たち=野蛮人)なのだ、という想像力も働こうというものだ。
発音の些細な違いが、本能的に「みみざわり」に感じられるということ。その上で、それ単なる進化的バイアスだし意識的にノイズキャンセリングしなきゃダメっすよ、ということ。
るつぼ
史実の脚色とミソジニー、ということでいうと、アーサー・ミラーの「るつぼ」(セイレム魔女裁判を題材にとったお芝居)をすこし前に読んだので、それとも時間があったら比較したい。「るつぼ」では魔女裁判のさまざまな要因が史実にもとづいて描かれるが、ドラマを駆動させるために主犯の少女が村のとある既婚男性と一夜の関係にあり、関係を解消された「腹いせ」に男性の妻のニセの告発を始める、ということになっている。だが史実では主犯の少女アビゲイルは12歳なのでその部分は脚色だろう。
(※アーサー・ミラーは信頼のおける作家で「るつぼ」は不朽の名作なので、もちろん単に少女が悪いというような話ではなく――話の要点はそこではなくて――一筋縄ではいかない作品になっている。)
私が読んだ版では第4幕のあとに補足の幕間のような断片が収録されていて、これがどういう位置付けのものかわからなかったのだが、(そういう意図ではないと思うが)もしも第4幕のあとに上演されたなら印象深いものになるだろうと思われた。ドラマが終わり、観客たちは深い感動につつまれて拍手をし始めるが、それに水を差す形で幕が開いて、悪魔のような少女アビゲイルがただの少女だったことが演じられるとしたら。
細雪:追記
個人的に面白さのピークだったのが、雪子がこいさん(妹)にその自己欺瞞を真正面から突き付けるところで、おいおいそこまで直接に言ったらさすがに関係性破綻するやん?と青くならざるをえないのだが、こいさんは一旦は家を飛び出すが数日後に戻ってきて、なんかシラーっとした顔で茶の間でお茶漬けかなんかすすってて、雪子もまるでそんな致命的やりとりなどなかったかのように何のわだかまりもなくこいさんに接しているのだった。うーん、なんとも言えずすごい、ありそう…!と息を吞んだ。
カレー沢薫先生の『ひとりでしにたい』にも、致命的発言があって、もうそこまで言ったら家族崩壊するやん…というところで、翌日、「すべてをなかったことにして乗り切る」というウルトラCを母親が発動するところがあって唸ったんだけど、それを思い出した。
冷静に人を観察する冷たい、ちょっといじわるな目と同時に、そういう人間的な部分を描写し理解し受け入れる生暖かい目が同居しているのだった。
で、幸子(メインの語り手)はそんなこいさんがエイリアンに見えてきてしまうのだ。仲睦まじい雛鳥たちの巣に紛れ込んだカッコウに見えてきているのだ。なんとか応援したいと思って世話を焼いてきた妹が「惑星からの物体X」に見えてきてしまうというホラーが展開されているのだ。あの煌びやかな名文の下で。
(ここ以降こいさんの描写は急速に退潮するため、谷崎にとってもここはこの長い話のひとつのピークだったのであろうと確信するところのものである~~)
ついでに言えば、作中後半、鶴子(長女)が、上京した雪子に「芝居に一緒に連れていってもらえなかった」ために、雪子と別の話をしながら我慢して我慢してついに泣いてしまうところ、あそこもすごい。
あれは芝居のことだけではなくて、華やかな娘時代をおくった自分が否応なしに引き返すことのできない列車に乗って随分遠いところまで来てしまったという感慨が、徹底的に心の芯から迫ってきたからなのだろう。
そういう言い表せないようなものぐるしい思いに胸の奥でひとりで整理をつけて、鶴子は幸子に、「女中さんにやるようなものでももらえれば助かるんだからこちらに回してください」と古下着の催促の手紙を送るのだ。
あ~~、泣ける!
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