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痛み、癒され、救われて。【CLAMP展に行きました】

CLAMPを知ったのは中学1年の時だった。クラスメイトが「きれいなマンガ見る?」と言って『魔法騎士レイアース』1巻の初版を見せてくれたのだ。真っ赤な表紙の美しさに息をのんだ瞬間を、今でもありありと思い出すことができる。
すっかりCLAMP絵に魅せられた私は、家じゅうの図書券をかき集めて近所の本屋に走った。レイアースは、マンガの棚から少し離れた画集のコーナーに面展されていた。その配置にも納得がいった。
マンガにしてはちょっとお高めの値段設定も、至極妥当と思われた。こんなに美しく緻密な線で描かれた絵に加え、立派な装丁、上等な紙だ。芸術品の域ともいえるこんなものを、中学生が買えてしまうなんて、どういうことだろう。どきどきしながらレジに差し出した。
レイアースを買った。レイアースを買った! 天にも昇る気持ちで家路についた。じっくり表紙を見つめ、扉絵に感嘆し、濃淡あざやかな白黒ページの一枚一枚を穴が空くほど見つめた。巻末の袋とじを切る時には緊張して、切り口がちょっと曲がってしまったのをしばらく悔しく思っていた。
CLAMPの世界。足を踏み入れたそこは広大で、深淵だった。最初にレイアースを教えてくれた級友は『X』もかっこいいよと教えてくれたが、少し見て怖かったので「私にはまだ早いと思う」と敬遠した。彼女はさらに『東京BABYLON』もかなりいいよと勧めてくれたが、それもなんだか怖くて、「私にはこれもまだ早いと思う」とお断りすると、今度は「そんなにレイアースがいいなら、本誌追えば?」と言った。
ホンシ・オウってなに? 連載してる雑誌を買って、いま連載されてるところを読むってことだよ。連載してる雑誌ってなに? なかよしだよ。なかよし……耳鼻科の待合室に置いてあるあの分厚い雑誌のこと? そうだよ。りぼんじゃないから間違えないでね。
親切な級友のおかげで私は「本誌を追う」という知識を得た。ただ、私の実家は子に厳しく、マンガを持つなど許されない。レイアースは絶対に見つからない場所にカモフラージュして隠したからよかったが、しかし『なかよし』は、隠せるか? あの分厚くかさばるカラフルな再生紙は、隠せるものだろうか?
学校帰り、試しに一冊買ってみた。服の下に押し込み部屋まで行こうとしたが、案の定バレてぶん殴られた。悲しいかな、なかよしは読まれることもなく取り上げられて家の裏手に打ち捨てられた。真夜中、こっそり起き出してハサミを持ち、レイアースだけでも救出しなくちゃと涙目で路地にうずくまり、濡れたなかよしをザクザク切って、きれいなイラストのページを救出した。惨めな子供はきれいな紙を手にして少し幸せな子供になった。それがいわゆる『巻頭カラー』というものだと知るのはまた別の話。
とにかく我が家ではレイアースを追えないし、本は隠し持たなくてはいけないし、グッズを買うなんてもってのほか。だから、大切なコミックスを、何度も何度も噛みしめるように読み、救済した巻頭カラーを教科書に挟んで、大事に指でなぞって過ごした。
私の実家は、町のあちこちによくある崩壊家庭の一つで、日常的に罵詈雑言と暴力を浴びて暮らしていたから、「ある日突然異世界に召喚される少女」のお話は純粋にうらやましかった。家族が不在の世界のなんと素晴らしいことか。しかしレイアースの主人公たちは、いずれも実家に恵まれていると第二シリーズで判明する。それぞれの将来の夢も立派なものだ。なるほど、努力家で高貴な少女たちだからこそ、異世界に召喚されたのだ。ゴミ屋敷の虐待家庭で糞尿の臭いにまみれ、殴られない日が一日でも与えられますようにと受け身に切望するばかりの私は、自分自身さえ救えていないのにエメロード姫を助けられるはずもない。だから私はまず自分を救わないといけない。なのに体力も気力も削がれて久しい。じゃあ、どうしたらいいんだ? 私は書店で『聖伝』を見つけた。
登場人物たちが軒並み理不尽な目に遭い、それぞれの立場から理不尽に抗おうと死力を尽くす姿に、自分の現実を重ねていた。そうだよ、ここは、立ち塞がる脅威を打倒しなくては、人権すら得られない世界なんだよ。納得のいく結末を期待できなくとも、エゴイスティックに守りたいものを守るため、足掻こうじゃないか。CLAMP作品から受けた影響の大きさ、与えられた示唆の多さは測り知れない。家族に隠れて愛読したCLAMP作品は、私の思春期の紛れもないバイブルであり続けた。
田中芳樹大先生の『創竜伝』に出会えたのも、CLAMPが作画をしていたからだ。その前のバージョンの天野喜孝大先生の装丁のものは、気後れしてしまって手に取れなかったが、文庫版になり四兄弟をCLAMP絵で視認できたことでようやく私は食指を伸ばすに至った。
政治。経済。歴史。伝統。文化的なさまざまな事柄。そして人間の葛藤、懊悩、深い愛。CLAMP作品に扉を開かれ、教えられたことが多すぎる。子供の時分に出会えたことが幸いだ。大人になり、不惑を過ぎ、私はCLAMP作品で目頭を熱くした青春時代の延長線上に生活している。精神の礎となったCLAMP作品たち。それらを描いてくれたCLAMPの四人の先生たち。ありがとう、という思いで、2024年夏のCLAMP展に足を運んだ。
展示は、素晴らしかった。原画を近くで見るまたとない機会。線のひとすじひとすじ、計算されたホワイトの滴、ベタ塗りの奥行き、そして考え抜かれた言葉のひとことひとことが、ページを捲った時の感情を喚起しながら、眼前に、力強く在った。終始、泣きそうになりながら歩みを進め、創作の空間を堪能した。ここに来ることができてよかった。かつてマジックナイトに本気で憧れるほど苦しんだ子供の私が、成仏するような感覚だった。
出口付近では、籤のようなカードを引かせてもらった。子供と私でそれぞれ一枚ずつ引いた。

「未来を選ぶのは常に自分自身よ」
「誰が どう断じても 選んだ道を進めばいい」


紆余曲折、迷走の半生だったが、ともしび代わりにCLAMP作品と歩んできた。それは若い時代の、遠い過去のことのような感覚でいたのだが、カードを引いて、思った。
「私はずっと前から、今も、これからも、CLAMP作品と共にあるんだ」
清々しい気分で進んだ展示の最後、侑子さんの言葉を目にして、とうとう我慢していた涙が零れ落ちることとなった。

『貴方の旅路に幸多からんことを』

ありがとう、CLAMP先生。

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ビワシュ
事実、雑感、生きた証をこれからも書いて参ります。 応援いただけるととても喜びます。