時代の変化を恐れたり、毛嫌いしたり、悲しんだりするのをやめよう
謹賀新年 2024
新年早々にこんな話もどうかと思うのですが、昨年は実にたくさんの方の訃報に接しました。坂本龍一さんのように著名な方から高校の同級生まで、ほんとうに悲しい一年でした。
思えば、若い頃に「誰々が亡くなった」というニュースを聞いても、「へー、そーなんだ、ふーん」という程度でした。それが、いつの頃からか身に染みるようになったのは、自分と近い世代の人が亡くなることが増えて、それだけに思い出や思い入れも強く、以前よりも大きく喪失感とか寂しさを感じるからでしょう。
じゃあ、「死ぬまでに訃報に接することが増えて、悲しみが積もりに積もって、最後に自分が死んじゃうのか。まあ、それが当たり前か。仕方ないよな」ってことになる訳ですが、ふと、それで良いのだろうかと思っちゃったんですね。
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この先の人生、体力は衰え、頭の回転も鈍くなっていくばかりなので、昔のように「何気なく過ぎていく日々が楽しい思い出として追加されていく」ような人生は望むべくもありません。一方で、悲しい出来事は次から次に襲ってくるだろう。あの人もいなくなった、この店もなくなった、あの場所も取り壊された――喪失の連続。アアー、ヤダヤダ。
そう考えた時に、ここらでちょっと楽しい思い出を追加していく能力のリニューアルを図っておくのが、残りの人生を長く楽しく過ごすためには必要なんじゃないか――そんな風に考えました。
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たいへん不謹慎な極論を言えば「友だちが一人死んでも、また友だちを一人増やせば、友だち付き合いの楽しみはずっと続くんじゃないか」ということです。このもう一人増やす力、追加するパワーみたいなものを、忘れないように意識しておきたいのです。
もちろん、先に亡くなった友だちのAさんと、後に知り合う友だちBさんは違う人格ですから、友だち付き合いの中身は大きく違ったものになるでしょうし、Aさんを失った悲しみは消えないだろうし、Aさんのことなんて忘れてしまったほうがいいという訳でもありません。
ただ、私が言いたいのは、Aさんを失って嘆き悲しんでいるうちに終焉を迎える人生と、Aさんの思い出を大切に胸に抱きながらも、一方ではまだ見ぬBさんとの出会いを楽しみに過ごす人生とでは、大きな違いがあるような気がする、ということです。後者のほうがよっぽど幸せな気持ちで日々暮らしていけるんじゃないでしょうか。
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私は子どもの頃からずっと同じ町に住んでします。還暦近くになると、今までは当たり前にあった建物が取り壊されたり、樹木が切り倒されたりする場所も増えてきました。都度、悲しくなるのですが、考えてみればそれは極めて当たり前のことです。今、この町のどこにも明治の頃の面影はないし、江戸時代の生活を今も続けろと言われても困ってしまうでしょう。かつて誰かが江戸時代の習慣を捨て、明治の景色を取り壊したからこそ、私にとっては懐かしい「昭和のくらし・佇まい」がようやく現れたのですから。
だから、必要以上に時代の変化を恐れたり、毛嫌いしたり、悲しんだりするのをやめようと思うのです。人が死んだり、建物が取り壊されたり、お店が閉まったり、そういうことに都度都度怯えるように反応し、ただただ嘆き悲しんでばかりいると、時代から置いてきぼりを食うのではないかと思うのです。自分自身を古い時代に「置いていく」――すなわち、それが「老いていく」ということなのかな、とも。
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要するに、今年は積極的に新しいことにもチャレンジしたいな、本もたくさん読んで知識も身に着けたいな、いろんな人とも出会ってみたいな、と思っています。
今年もよろしくお願いします。(あいさつ長っ!)