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『探偵物語』が『不適切にもほどがある』件について

毎週、ドラマ『不適切にもほどがある』(通称『ふてほど』)を観ています。世間では、このドラマに対してはいろんな意見があるようです。


ところで、実際の1986年ってどんな感じだったっけ。そう思って、それよりは少し前ではあるのですが当時の情景がよく映っているテレビドラマ『探偵物語』(1979年10月-1980年3月放送)を観返してみました(我が家には全巻DVDセットがあります)。

驚きました。(現在の感覚で言えば)その不適切さがハンパありません。公園でタバコをスパスパしながら依頼主に説教を垂れる探偵。性風俗店内のリアリティ溢れるロケ――等々。『ふてほど』に登場する人物の不適切さがどれもマイルドに見えてしまうほど。

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もちろん「だから『ふてほど』は許容範囲」というつもりはありません。ただ、こうして当時の状況を見直してみると、何となくクドカンは「不適切さ」と向き合おうとしてこのドラマを書いているのではないような気がします。38年前と今を対比させて、論点を整理して、「昔には不適切さもあったけれど、今よりも適切だったこともあったでしょ」「いまの不適切さの基準を見直しませんか」そんなことを言いたいのではないのではないか、と。

阿部サダヲ演じる主人公の不適切な言動・ふるまいはいわばエサなんじゃないでしょうか。いろんな世代の気持ちをザワザワさせて、視聴者の気持ちをドラマにぐっと惹きつけるためのエサです。そして、SNSで喧々諤々とやっている人はエサに群がる元気なお魚さん達なのではないか、と。

そして、たぶん。
私の愚かな推測としては、この先クドカンはこのお魚さん達を一網打尽にすべく、もっと大きな網を投げるんじゃないでしょうか。そのための伏線は既に何本も張られているのだろうけれども、その一つが何週かに出てきた『震災』にまつわるエピソードなのではないか、と。

朝ドラ『あまちゃん』でも震災が重要なテーマになっていたけれど、不適切かどうかなんて云々するまでもない「いのち」の大切さ、美しさ、強さ、儚さ――そういったところに向けて、絶妙のコントロールでクドカンは剛速球を投げ込んでくれるのではないか、と。そんな風に期待しています。

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前述の『探偵物語』にはほんとうに不適切な事例が山ほど登場します。現在の地上波テレビではそのまま放送できないかもしれません。けれど、そこに描かれている情景には街に生きる「ひと」の輝きが溢れています。

世間では不良・不浄――不適切とされてはいても、そういう部分にこそ、いや、そういうイケナイ部分にこそ、人間には輝く部分、愛すべき部分がまだまだ残るのね。そういう部分をひっくるめたのが「人が生きていく」ということなのかしら。当時まだ若かった僕たちは、ドラマを通じてそんな風に学んだような気がします。

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『不適切にもほどがある』が最終回を迎えた後、もう一度、それぞれのドラマを観直してみたりするのも楽しいかもしれません。

という訳で、皆さん、次回をお楽しみに。

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