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「虎に翼」で主張されているコアバリュー「法と道徳との独立性」あるいは、やさしさの保持について

友人のスレッドで「法律を破った人間が罰せられる(不利益を被る)ことで、果たして社会はよくなるのか?」という問いを最近見ました。この答えに対する私の答えは「YES!」なのですが、この問いを出した人に対してはたぶんうまく答えられないなあとも思いました。この問いを発した人が、返答者に対して期待している返信は、数字になるような根拠だったからです。例えば、飲酒運転をした人に対する罰則の重さを強めた結果、飲酒運転をする人の数そのものが減少し、さらに重大な交通事故の数も減少した、みたいな根拠ですね。私自身はこのような根拠が提示されたところで「社会がよくなっている」とは認識しがたいし、むしろ認識したくないです。なんかそれってディストピアっぽい発想な感じがするのです。例えば、タバコを違法薬物として認定し、マリファナ吸っているのと同じように喫煙者をしょっ引くことで喫煙者自体の数も減って、肺がん罹患者も減りました。よかったよかった、みたいな。これはまさにディストピア思想だと私は思います。

 では、どのようなことを根拠に「法律を破った人間が罰せられる(不利益を被る)ことで、果たして社会はよくなるのか?」に「YES!」と答えたいかというと、シンプルに言うなら「違法行為の主体者が罰を受けるという仕組みがあるから、人と人は憎みあわずに済むようになっている」ということなのだと思います。すなわちルールと罰とのセットがあるからこそ「悪人」と「悪事」を切り離すこと、さらには「悪事」と「ルール違反」を切り離すことができるのだ、という認識です。

 ずっとNHKの朝ドラ「虎に翼」のファンで熱心に見ているのですが、見事に主張しているなあと感心するのは、この番組が持つ一貫した主張が「法と道徳との独立性」だということです。主人公の恩師でこのドラマの最重要人物である桂場判事が、さらにその恩師の穂高教授の葬式の際に、酒に酔った勢いで「法と道徳との独立を死守すること、これこそが穂高イズムだ!」といいながら皿をバリバリと食べるシーンは、過剰なまでの演出になっているのですが、それほど明確に番組作成スタッフが主張したいことなのでしょう。

 私たちはどうしても「ルールを破った人 = 悪事を働いた人 = 悪人」という構図を持ってしまいがちです。一方で、とても深いドラマの中で一般的なルールを逸脱する行動を起こさざるを得ない状況は多数存在します。そして、他者のほとんどはそのドラマの深層に触れることはできないし、触れたとしても当事者の感情を共有するところまで行くことはできません。もしルールと、そのルールを破る行動に対するその主体者への不利益(罰)の提供が存在しなかったら、どうしても人は「ルールを破った人 = 悪事を働いた人 = 悪人」という認識のスキーマから逃れられなくなってしまいます。さらには、「虎に翼」のシーンで明確に主張されているように、ある状況に対してパワフルな権力を持つもの(すなわち状況的正義をもつもの)の論旨に、人の行動は巻き取られてしまうのです。

 もちろん、立法時においては、その法が制定される経緯の中で正義や道徳への準拠が厳しく精査され、議論されることが前提であり、法が生まれる段階においては、ルールと道徳とは密接につながっているべきです。しかしながら、一度それがルールとして制定されたのであれば、「ルールを違反したかどうか」ということと「ルールを破った人が悪い人かどうか」ということについては可能な限り独立している必要があります。そして、それによって、心情的に共感できる人に対するまなざしと、法的規範を逸脱した行為に対してその人が罰を受ける、ということを同時に他者は受け取ることができます。ルールとは、行動そのものへのまなざしと、行動を起こした主体者へのまなざしを断ち切るための仕組みであり、それは、すなわちやさしさの仕組みであるともいえます。

 とわいえ、この二つの独立性を発揮し続けることは大変困難です。私も含め、法あるいは倫理、あるいはその両方について、その特性をうまくできていないと、どうしても「ルールを破った人 = 悪事を働いた人 = 悪人」という構図から抜け出すことは困難ですし、「ルール違反 = 悪事」については、法的規範から見ればそれは正しい認識でもあります。だからこそ、例えばサッカーで意図的にハンドをしてレッドカードを受け退場することになった選手を見る時、自分が何に対してどんなまなざしを向けているのか、ということについて日常的に自生する習慣が大切なのだと思います。

 このテキストを書こうとしたきっかけも、来週オリンピックを控えた体操のエースに未成年での喫煙・飲酒が発覚したことに関する一連のニュースをみながらわいた感情を言語化したいと思ったからでした。喫煙・飲酒の当事者にはわたしは「さぞかしストレスが強かったのかも」と勝手な同情のまなざしを持ちます。一方で、ルールに基づく処分は必要です。さらに言うならば、大会への出場停止は「処分」のかたちで行われるべきであり「自粛」とか「自主的な辞退」のかたちで行われるべきではありません。法と道徳との独立性、あるいは、法があることで人が他者に対してやさしさのまなざしを持ち続けられるとは、そういうことなのだと思います。


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