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33歳。〜バカ男、極まる〜

27歳。

二児の父。

24時に帰宅し、朝6時に出勤。ほぼ毎日そんな感じ。

土日も仕事。

毎週末、発熱。週末中に、解熱させる。

体力が限界にきているときは、寝る以外できなくなる。


ふと目を覚ます。しーん。静まり返った部屋。息子(生後半年)の寝息がスースー。

きこえるはずの音がしない。

娘(2歳)がいない。

「じゃあ、行ってくるからね。寝ないでよ。子どもたちみててよ」
と妻に言われ
〝うん〜…〟
と返事をしたのをかすかに覚えている。それが数時間前のことだ。

家中、隅々まで探す。いない。

ここは団地の5階。

窓の外をのぞく。いない。

すこし、ホッとする。

玄関のカギがあいている。

まさか。

息子をおんぶ紐で背負う。階段を駆け降りる。自転車にまたがる。近所を捜し回る。

いない。いない。いない。

妻に電話する。予定をキャンセルして、すぐに帰ってくることに。

生きた心地がしない。自分が死んでしまいたい。不幸な結末をみるくらいなら、その前に。

ハッと気づく。保育園?
行ってみる。いない。

そういえば
「保育園のお散歩で公園にいった…」
とか言っていたような気がする。そこまで行くのに、少なくとも信号を二箇所は渡るはず。

いた。

ひとりで遊んでいる。声をかけると、嬉しそうに
「パパぁ〜」
と笑顔でこたえてくれる。私はその場にへたり込んだ。

その後、妻とどんな話をしたかは、覚えていない。


まだまだ、バカ男は続いていく。

反省の色もない。相変わらず仕事ばかり。

仕事ばかりとは遊んでばかりということでもあり…。

「遊ぼうよ」
と連絡があれば、246号線をバイクでとばし渋谷のクラブへ。

24時に家を出て、次の日は朝6時から仕事。

家族と向き合う時間などあるはずがない。




30歳。

三児の父。

仕事ばかりしていて、帰宅はいつも23時過ぎ。日付けが替わってしまうこともめずらしくない。相変わらずの生活。


ある日。仕事から戻り、玄関を開ける。娘が出迎えてくれた。
〝起きて待っていてくれたんだ。こんな時間まで〟

「もう遅いから寝な」

「うん。もう少し、そうじしたら」

母親や弟妹は寝静まっているなか、宿題をやったり、部屋の片付けをしていたり。

「今日、となりで寝てもいい?」

「うん、もう少し仕事がするから先に寝て」

台所でガサゴソと音がする。インスタントの珈琲を探し、
「パパどれくらい入れるの?」
「お湯はどうやって沸かすの?」
と声がきこえる。

大きいガラスのコップに、いっぱいに注いだ珈琲を、重くて、手をぷるぷるとふるわせながら、持ってきてくれた。

〝何で寝ないのだろう?〟
と、ふと寝室をのぞくと、母親を中心に、両隣を弟と妹がしっかりキープして眠る姿があった。それならばと、父親の帰りを待ったのだ。起きている理由をつくり。

いつも母親の隣から弾かれてしまい、寂しさを募らせていたことを理解した。

娘が初めて淹れてくれた珈琲は、苦くて、とても苦くて、寂しさがしみわたった一生懸命な味がした。

「そろそろ寝ようかな」

「うん」

ほっとした、娘の笑顔。たまらなく可愛かった。ぎゅっと抱きしめたくなる笑顔。

〝ごめんね、いっぱい遊ぼうね〟

可愛くて愛しくて、溢れ出るものが止まらない。

〝子どもたちとの時間をつくる〟

そう決めた。


次の日、携帯電話のメールアドレスを変更した。同時に、アドレス帳と通信記録を全て消去した。

後日、携帯電話の番号を変更した。

もう、連絡はとれない。遊びのお誘いはない。物理的に距離を置く。意志力では負けちゃうかもだから。

家族、親戚、職場の同僚など、必要な連絡先だけを一人ひとり登録した。


そして、少しずつだが
〝定時に帰る〟
ことを目指した。




33歳。

第四子が産まれた。病室で抱っこする。衝撃がはしる。雷で打たれたようとはこのこと。

可愛い。

今までに抱いたことのない感情。子どもたちのことは大切に想っていると思っていた。赤ちゃんを抱っこして可愛いく想ったと思っていた。

でも…残念だけど…それとは違う。

赤ちゃんって、こんなに可愛いかったっけ?
だったのだ。

私は父親として成長していたことを実感した。

娘が淹れてくれた、たった一杯のコーヒーが、日常の些細な一コマが、人を変えるきっかけになることもある。一瞬にして変わるのではない。その後の行動。意識して積み上げた子どもたちとの想い出の一つひとつが。知らない間に、バカ男を父親へとすこしは成長させたのだとおもう。

同時に、気づいた。私には上の子3人の、幼い頃の記憶がないことに。お出かけはした。たくさんしたと思う。基本、家にじっとしていることができない一家だから。でも幼い頃の些細な一コマを思い出せない。空っぽ。私の記憶にあるのは写真に写ったものと、ある程度成長してからのもの。

『家族との時間を大切にしてこなかった』
とはどういうことなのかを痛感した。

ときが戻ることはない。

仕事ばかりの日々を後悔はしていない。やらされたわけではなく、自分で選んでそうしてきたのだから。子どもたちと向き合ってこなかったことが哀しい。


〝遅くまで残業してる人〟
というパーソナリティーを捨てた。そして何年もかけてつくりあげた、
〝定時にふつうに帰る奴〟
というキャラを維持していく。

もちろん、ずっと。今も、葛藤はある。だってアラフォーという、もっとも充実した仕事ができるであろう年齢だから。

あれほどなりたいと思っていた管理者にというお話を断ったのは正解だったのだろうかと。考えることだってある。

若い頃は家族よりも仕事。今は仕事よりも家族。これ、逆だったら良かったのかもって。おもうこともある。

今度は、仕事と向き合わなかったことを後悔するのかな?そうならないように勉強時間は確保するようにしている。それでもダメなら、別にいいや。もう。

だって、幼い頃に築けなかった分の想い出を、急いでつくらなければならないのだ。抱っこしてあげられなかった分の愛情を注がなければならないのだ。まだ吸収してくれるうちに。と思うから。


それにしても
〝仕事ばかりの親の背中をみて育てば良い〟
とは、なんて都合の良い言葉だろうか…。

人を強くするのは、楽しくて楽しくて仕方のない日々だ。

そんな日々が、子どもたちや私たち夫婦の心を強く柔らかくしていくのだとおもう。

乗り越えがたい壁にぶちあたったときに、その壁を乗り越えるための糧になるのだと信じている。


子どもたちが、スッと手を伸ばしてきたら、ヒョイッと抱っこしてあげる。
「歩けるんだから、歩きな」
「自分でできることは自分でやりな」
よりも抱っこしてあげることの方が大切。大丈夫。〝抱っこ癖〟なんかつかないから。そのうち離れていくから。抱っこさせてもらえなくなっちゃう前に抱っこ。すこしの腰の痛みなんか辛抱しなさい!

「お菓子買って」と言われたら、買ってあげる。「◯◯買って」と言ってくれるうちに。「◯◯買って」と言われて買ってあげられるうちに。だんだん、高価なものになってくるし…。いまのうち…。

「◯◯やってみたい」は全部やらせてあげる。すこしくらいお金がかかっても気にしない。〝また今度ね〟とか有耶無耶にしていると「◯◯やってみたい」がなくなってしまう。「◯◯やりたいという想い」をなくさないことのほうが大事。お金なんて使い切ってしまおう。旅行。テーマパーク。体験コーナー。映画。ゲームセンター。などなど。「◯◯やりたい」「◯◯行きたい」「◯◯食べたい」と言ってくれたら即行動を。

今、何が大切なのか、考えて。

って偉そうに、あの頃の自分に言ってやりたいです。



そうそう最後に、高校生になった娘よ。

それにしても、あのときの珈琲は苦かった。ローソンの濃いめアイスコーヒーよりもずっと濃い。
〝たくさん入れりゃあ良い〟
ってもんじゃないぜ。




〝お前がゆうな〟

ですね。



もし私のエッセーをサポートしてあげようかなぁとおもわれる方がいらっしゃいましたら、ぜひ120円お願いいたします。近所の自販機にある大容量コーラを子どもに買ってあげたいとおもいます