。「No pain, no gain」
先月にまたひとつ年を重ねました。
そして、長年共に暮らして来た家族(愛犬)が亡くなりました。17年間お疲れ様。人生を愉しく支えてくれて本当に在り難う。
しかし、わたしの誕生月に往くとは……強気な犬です、全く。
あれから毎日、思い出しては悲しくて、家族といろいろな記憶を遡って、想い出話しに泣き笑いをしたり、やっと落ち着いて来ました。最期も全員揃って見送れたし、何より犬自身が懸命に犬生を生き抜いたので悔いを残しては、その方が耐えられない。そう思える心境になりました。
さて犬が居なくなって、時間がぽっかり。つい居た場所を探してしまう。探しても居ないのは当たり前だけど、つい先日、「もう十分わかっているけど探すんだ、何が悪い」とばかりに特に広いわけでもないマンションの部屋を思いっきり探し回りました。不思議とその日は空間が広くて、言葉を飲み込んでしまいそうになりつつ、それでも負けじと名前を呼んでみたり、(頭は正常です)アホなことしてると言いながら。
ある意味で、妙にすっきり落ち着いた。
ついでに今まで興味もなかった俳句、短歌なんて詠んでみたりして自分自身に苦笑します。(また流動性の中へ)
でも、弔いの方法は様々で良いとも思いました。
秋の風
抱えし犬の
息づかい
いつかいつかと
瞳を閉じる
秋の風
疲れた衣
脱ぎ捨てて
いつかのように
犬駆けぬける
秋の風
すれ違う犬
眺め笑み
手に余るひも
なぜ居ないのか
なぜ居ないのか?
もう一つ、韻を踏むのかダジャレか問題。
犬が居ぬ
「いぬ が いぬ」
さて、どうしよう、
「いぬ は もう いぬ」だから
今、上手くリズムは取りたくないけど、そのうちね、
しばらくは、
「いぬ が いぬ」を繰り返し呟く
さみしいけれども、何だか笑えてくるからバランスが取れる
(メモ書きコピペ)
ダジャレやないか!
もう居ない犬のことを、もう居ない人に助けられる不思議。
犬はもちろん好きだけど猫も好き。
養老先生は、きっと冷静に弔うと想像していた。でも、確かに理知だけど、実に自然にあたたかく愛猫を見つめていたのかを知りました。
Photo directorまで使い始めて、どうかしている。新たな出会いに繋いでくれたのも、またビスコのお陰様。
そうそう、題名は韻を踏んでいます。
今のわたしのスローガン
弔う曲もやっぱりリミックスで。きっと、亡き犬も鼻を鳴らしてると思います。