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新入社員の佐藤宇宙(そら)は、ゆるふわ系と思いきや戦闘モードだった|メンバー紹介vol.4

時代はもう完全に彼女たちのものなのだと強く思う、40代なかばに突入した本間です。

DAIDOKORO最初の社員は、現役大学生ながら獅子奮迅の活躍で役員に抜擢されたゆーさく。そして昨年12月に念願の2人目の社員として入社したのが、今回紹介する佐藤宇宙(そら)です。

立命館大学「食マネジメント学部」の大学院に通う現役生。30歳までに故郷の八丈島へ戻ると公言し、そのときまで修行の場としてDAIDOKOROを選んだ彼女は、かけ声である「日本一のコミュニティキッチン」へ向けてすごいスピードで現場業務を吸収しています。

一見もの静かな印象ながら、話を聞いてみると狙った目標は何がなんでも達成してきたガッツあふれる過去のエピソードがチラホラ。そして、コミュニティキッチンというものを僕らが体現する上で、彼女以上の適任はいないかもしれない、そんな期待すら生まれました。そんな彼女の物語をぜひお読みください。

ふるさとは八丈島。島の原風景がわたしをつくった。

佐藤といえば、八丈島。チームの誰からも、そう紹介された。豊島区に生まれ育ったが、島で民宿を営む祖母のもとに通うこと100回近く。高校からは移り住んだ「東京都亜熱帯区」をうたう南の島が、彼女のふるさとだ。

撮影:岡優成

彼女の食に対する情熱や感性は八丈島で育まれたと折に触れて感じる。

いまは料理も食べるのも大好きな佐藤だが、もともと野菜が嫌いで食べられず、中学校までは給食の時にはいつも泣いていたと言う。島に住むようになった高校の頃から食べられるものが増えていったのは、祖母の民宿のお手伝いがきっかけだった。食事の準備や配膳などを手伝う中で興味を持ち、いつの間にか盛り付けなど自ら提案をするようになっていった。

「おばあちゃんと明日葉※をよく摘んでました。摘みながら、栄養の話とか料理の話を聞いていたのを覚えています」。自分が口にしている食材が、どこに生えている、どんなもので、どんなプロセスを経て食卓にならんでいるのか。それらが繋がったのが「面白かった」。

明日葉(あしたば):独特の苦みを持つセリ科の多年草で、栄養素の豊富さで知られる。別名「八丈草」、島を代表する郷土食材のひとつ。

民宿の台所で何度も何度もにぎった島寿司(タネを醤油漬けにした寿司)。近くの漁師さんからいただいた何百尾のムロアジを、ひたすら捌いているおばあちゃんの背中。捌いたムロアジを漬けるくさや※倉庫の独特な臭い。彼女の記憶は八丈島の郷土の風景そのものであり、話を聞きながら純粋に羨ましいと思った。

くさや:アジやトビウオなどを、継ぎ足しで使い続けられた塩水(くさや汁、塩水に魚のエキスが溶け込んだ漬け汁)に漬けこんだ保存食、郷土食

「私を受からせなかったら後悔します」勝ち取った大学入学

18歳の夏。納得行く進路を見つけられずにいた佐藤に電撃が走る。その翌年から始まる立命館大学食マネジメント学部の一期生募集のホームページを見た時だった。

「世界をおいしく、おもしろく」。
力強いコンセプトワードから始まるそのページでは、コーヒーを題材にその歴史や文化の広がりが表現されたビジュアルが広がっていた。マネジメント、カルチャー、テクノロジー、3つの領域を学んで食の分野で社会に役立つ人材を育てる。読みながら、心臓がバクバク鳴っている音が聞こえたと言う。

どうしてもこの学校に入りたいとすぐに高校の先生と相談をしたが、あきらかに科目が足りない。AO入試を狙うしかないが、アピールネタもない。そんな状況のなか、佐藤は「AO入試のためのイベントをやればいい」と開き直った。そうして学校全体を巻き込んで「ちびっこシェフ島じまんグルメ大会」を開催した。

当時の様子。写真はこちらのブログより

受験当日。面接では「私のためにできた学部。受からせなかったら後悔します」と言ってのける。そしてその日、まだ合否も分からない中で賃貸物件の契約も済ませたと言う(倍率10倍以上をくぐり抜けての合格だった)。

大学時代は、体育会トライアスロン部に所属しながら、ゼミはピザ釜のある研究室でイタリアの食文化を研究。長期休みの期間は立命館大学が連携しているフランスの調理師学校「ル・コルドン・ブルー」の集中コースも受講し、卒論はイタリアの分散型ホテル「アルベルゴ・ディフーゾ」をテーマにした。

彼女はいま、食マネジメント学部の大学院で移住者の地域定着をテーマにした研究をおこなっている。「正直、いろいろやりきれなかったという思いが強いんです。在学4年間で、食は一生学んでも学びきれないこと、そしてそれぞれのテーマにどうアクセスすればよいかを学んだので、これからは具体的に自分の人生と学んだことを重ねていければと思っています」。

家のトイレに貼っていたポスター。目標を決めてそれに突き進む際、こうして自分なりの絵を描くことが彼女のスタイル

次なるターゲットは「店長奪取」

佐藤とDAIDOKOROとの出会いは、大学院に入った昨年の夏のことだった。野菜を売っているからと軽い気持ちで訪れたキッチンスペースを見て、一瞬で確信したと言う。「これだ(私の場所は)」。

その時に副店長の募集情報を見た彼女は、このポジションを勝ち取ろうと心に決める。予定を極限まで減らして暇をつくり、入れるシフトに全部入った。

もともとコミュニティキッチンというものに興味を持っていた。他地域の事例を見に行ったこともあるし、大学時代は自分の家がコミュニティキッチンだったとも言える。

定期的に八丈島から送られる大量の魚たちを肴に、部屋を大学の仲間たちに解放していた。島寿司をみんなで握ったり、金目鯛が大量に送られてきた時には煮付け、塩麹焼き、刺身、あら汁、炊き込みご飯までオールスターのキンメパーティを開催。それは自身のかけがえない思い出であり、友人からは「つらい時に、あの場所があって本当によかった」と言われた大切な場所になった。

佐藤にはもう一つコミュニティキッチンの記憶は、島のおばあちゃんの民宿にある。食堂で食事を終えたお客さんが部屋に帰る途中には、佐藤家が夕飯を食べる畳の間がある。佐藤家はよくお客さんを家族の畳の間に誘い、そこから2次会が始まった。

大きな食卓の真ん中に食べ物があって、知り合ったばかりの人が楽しそう囲んでいる。高校生の自分も、小学生そして赤ちゃんの弟妹もいて、誰がそこにいてはいけないとか、いなくてはいけないもそこにはなくて、たまに地域のお巡りさんや校長先生が参加することも。卵焼きをつくったら、みんなが喜んでくれた。そんな体験が、彼女の食への興味を育てていった。

DAIDOKOROに興味を持った理由を「八丈島で自然にできていた風景を、どうやったら意図的につくり出せるか挑戦したい」と話す彼女は、コミュニティキッチンの申し子かもしれない。

入社してからの4ヶ月は食らいつくのに必死すぎて何も考えられなかったと言いつつも、「目指すは前原さんから店長の座を奪うことです」と何事もないように話す。コミュニティキッチンで働いていた、のではなく、コミュニティキッチンをつくっていた、と言いたい。そうなることが、いつか八丈島に帰った時のためにも必要なのだと。

島に帰って何をしたいのか聞いてみた。「民宿を継ぐのもいいし、おばあちゃんのためにラーメン屋をつくるのが夢。島の景色の中でみんなで子育てをしたい。保育園もつくりたい」。溢れるやりたいこと、つくりたい景色のイメージを、起業とか事業とかそういう言葉とは無縁の軽やかなテンションで話す。

40歳を超えたら公共財と思っている自分としては、こんな次世代を応援する以外に道はない。是非みなさんも、佐藤宇宙(そら)に会いにDAIDOKOROにお越しください。

【告知】佐藤の独自企画「キッチン開放」

普段は予約制、有料が基本のコミュニティキッチンDAIDOKOROですが、月に1度の「キッチン開放DAY」では、誰でも自由に、しかも無料でキッチンを利用することができます。当日は学園祭のようなノリで、ランチや野菜販売はじめ、京都の町のさまざまな人たちによる企画が展開される予定です。次回は2月9日の11:00-20:00。ぜひお越しください。

※キッチン開放の他、DAIDOKOROではさまざまなイベントを企画しています。ぜひLINEに登録して最新情報をゲットしてください(LINEの運用も佐藤が行っています)。

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