今日のタロットからの思索
ここしばらく、自分の声が一際うるさかった。ずっと話し続けている。これがもっと大きくなると病気カテゴリー入りするんだろうなどと思った。
引っぱられている。心が抵抗する。
この鳴り止まない自分の声は手強く、瞑想作業の中でさえ、ふっと、こうすれば…などと行動の仕方を思いついたりしている。
もうびっくりするほど(呆れるほど)自然に無意識に離れる。離れていたことすらしばらく気づかなくて、あっ、またやってしまったとなります。
一時より落ち着いてきたものの、まだ思考はやりたい放題です。
そのなかで、自分の欲望・傲慢さについて実感すること、内省への流れが見えづらくなります。とにかくとりとめなく次から次へと意識が浮遊していて、その絶え間ない騒音の中で、やるべきことに向かうこと。静かな場所を探し、そこで留まること。
だからLustはそこに向かうためでもあると同時に、自分の欲望、7つの欲望に象徴されるあらゆる罪が、本来理解できなければならない。
具体的なできごとを通してみると見えやすいかもしれない。
これらの騒音の中でいくつか自分が反応するものを見逃さずにつかまえて、その反応の芯を見つける。
そうして軌道修正をする。それらの作業がプリンスのこの戦車を操りながら進むこととも言えるのかもしれない。
Lust のヌイトもソードのプリンスも手綱を持っている。プリンスは思考に対する手綱。ヌイトはその思考を生み出す欲望に対して手綱を引いている。
思考はどこから来るのだろう。
あらためて問いかける。さっきのプリンスの軌道修正までが実践的作業だとすると、この問いかけは俯瞰的作業のきっかけとも思える。
しかしながら、この"とりとめなく浮遊している意識"は、私たちの課題である「意識の断片化」が可視化されたみたいです。
また、結局は自分のことを考えていると思い知らされる。
自分に関係する事物は自分のことと同じ、神のこと以外は、すべて自分のこと。
神のこと、霊性など真剣に思ってないのでは?そうしたいけれど、実際にはできないのでは?思ってる振りはできても。
思考について考えていると、Kの本が浮かび、ひさしぶりに引っぱり出してみました。
思考を使う必要のないところで思考を使っているように感じる。
現在のこの埃のように浮遊し続ける意識たちは、どこへ向かっているのか私は知らない。
私の辿る道は、思考と同じところには進まない。だから思考と同じ構造・方法で進む必要がないし、同じ構造・方法では進めない。
Kの言われる「技術の世界でのものと同じ活動、同じ運動」は、物体的なんだと思う。物質的。だから限られるんだと。
浮遊する意識は私を取り囲むが、それも物体的で限られた存在。手強いけれど有限。
もがこうがもがかまいが変わらないなら、浮遊する意識 = 思考は好きなようにさせてみたらどうか。
脳は「思考」として働くと学んできた。
"学ぶことがあなたを癒す" という言葉を大事にしている。
状態はこれまでと変わらないけれど、学んだことが変化を起こすかもしれない。
思考は私ではない。魂は、私、のはず…この「私」ではないかもしれないけれど。
魂が旅をしなければならない。
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