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好き嫌いについての思索 4

現在取り組んでいる「好き嫌いについての思索」の足がかりになった、タロットの視覚化瞑想訓練があります。
今日はその「#5 The Hierophant 高等司祭」の視覚化訓練でのタロットの学びについて共有したいと思います。

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メイガス(師)との問答
「人に対する葛藤の感情(不快感・嫌悪感)を乗り越えるために学びたいです」
「その葛藤はあなた自身が生み出しているということを発見してきなさい」

オシリスに上の問答を話し、学びをお願いする。
「手を出しなさい」

左右の手のひらを見せた。

「学びが足りません」

こんなに学びが与えられてきて、今もなお与えられているのにということ。自分として絶対的に足りない。手は体験が表れるため、体験も足りないことを示す。
この道を進む上で、精神的に未熟。この問いを発すること自体が、学びが足りない。この問いを明確に解くことが必要。
と理解した。

オシリスより、玉座に座るよう示され座る。五弁のバラの花びらの出窓が頭の背後にあった。

私はある場所にいた。生命の木と思われる一本の木が目の前にあった。
少し離れて右側に蛇がいた。蛇が言葉を発した。

「嫌いっていうのは快感/快楽なんだよ」
「相手が不幸になるのを思ったら、なんか気持ちいいだろう?」

蛇の言葉は耳を塞ぎたくなった。
その快楽が私には分かった。分かってしまう感覚がおぞましかった。

そこに鳩が飛んできた。鳩は私の頭上に降りてきて、羽を広げて座った。
さっきのおぞましい感覚が止んだ。頭の中がシンと静まった。それにより、それまで頭の中がザワザワしていたことに気づかされた。
これらと同時に、十数人が手をつないで輪になっているヴィジョンが浮かんだ。

そのヴィジョンを見たとき、あぁ、ここがいい!こういう風にいたいと切実に思った。
生きる世界がこんな風になったら……
それは果たして可能なのか?と自問が起こった。

それは可能だと浮かんだ。
なぜ可能かと思う間もなく、自分の胸にホルスを認めた。
だからホルスによってそれが可能になるんだと分かった。
意識が統合される。「意識の全体性」が実現するんだ。
すごくいいと思った。

戻ってきてオシリスと話した。
オシリスは「発見しましたか」と尋ねた。
私は頷いて、(人に対する葛藤の感情は)意識が起こしていることが分かりましたと話した。

自分の意識が分断を促している。意識がバラバラに断片化しているから、そうなる。
断片化とは、"私は私でいたい" というものに感じた。
個人でいたい。だから断片化なんだ。全体の中にいないで、個人として分かれてしまう。

意識が起こしているのは間違いないと思った。
意識 = 自分自身が起こしている。
私自身が葛藤の感情を生み出しているということ。
師の言われた通りだった。

鳩が頭上にとまって、頭の中がシンとなったら、「それ」は感じ取れなかったし、
そうなったとき、蛇は私に近寄れなかったどころか、もはや脱皮して皮だけになっていた。

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鳩が羽根を広げてとまっているのは、頭脳が自分、 "私" の働きでない状態を表します。

鳩には、啓示を得る。新しい世界の方向を探すなどの意味があります。
これはどういうことでしょうか。

その啓示は、新しい世界の方向性を実は示してくれる。
新しい方向性、それが感じられるほどのこと。それを「啓示」と言います。
手塚治虫の漫画みたいに、頭の上に電球がついた絵みたいなこれだな、あれだな、というだけじゃない。
新しい世界、方向性が感じられるほどのレベル。それが鳩です。
タロットカードでは、鳩をそれくらいの象徴体として表されています。わざわざ。
そのレベル、それくらいのレベルのことだと(啓示だと)わかるように。

『#5 The Hierophant 高等司祭』の講義ノートより

このくらいのレベルのことがやってきたので、
私ではない、全く異なる霊的な働き(鳩)がやってきて、脳の働きが変化し、 "私" という意識は静まりました。
この鳩は、精神の全構造が一変するような働き - 力を持つものです。

だから頭は静止して、そして蛇は脱皮していました。
これは古い意識が脱ぎ捨てられた状態を表しています。
蛇は  "私" とも言えます。"私" という意識を形成していたもの。

ホルスはイシスとオシリスの結合から生まれます。結合、すなわち愛。
愛から「意識の全体性」が生まれる。つまりホルスとは愛からできており、意識の全体性(をもたらす者)。
脳の構造が愛に基づく「意識の全体性」として働き始める時点で、個人として分断(断片化)していた意識はすでに超えていることになります。"私が私でいたい" 意識を乗り越えています。

この視覚化訓練で学んだことは、
「意識の断片化」には、個人でいたい、個人を優先したい感覚(私は私でいたい)がある。
それに対しての「意識の全体性」は、個人でなく人と関係を結びながら生きる、個人レベルでなく、関係内レベルとしての人間意識で生きる(人と手をつないで輪になっているヴィジョン)。

そしてもう一つの重要な発見は、嫌いという感情は快楽につながることでした。
嫌いという感覚が生じるとき、同時に快感も生じている。

嫌悪感と快楽とは矛盾しているように思えますが、これは排除したい欲望と結びついているからのだと思います。
嫌いなものがなくなってほしいのです。
嫌いなものがなくなると、快適なのです。

人間の最も愚かな行為である戦争がなくならないのは、この欲望が快感と結びついているからだと思います。

排除することで満足する欲望の感覚は、意識の全体性とは対極にあり、とても個人的で、排他的なエネルギーです。
私が満足したい、気が済むようにしたいという欲求は、"私は私でいたい"という意識にある本質的な欲求と思います。

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今回は人に対する葛藤の感情(不快感・嫌悪感)という、不快に属するものの学びでした。

この学びを通じ、つまるところ、快も不快も同じなのでは?と思いました。
快はもともと、快楽の出発点にあります。不快さは、排除することを通して満足感や安心感を感じます。

どちらも快楽の芽となるものであり、囚われたり求めすぎると、破滅的な力を持つもの。
戦争、殺人事件、自殺が世の中から消えたことはありません。名声や権力とも引き寄せるように強力に結びつきます。

快・不快は、日常生活を送る上での様々な基準となるものですが、「生きる」ということの本質とは、別のものなのだと思います。
しかし現代においては、生きるということにまで、この快・不快が侵入してきているように思います。

オシリスが私を牡牛の玉座に座らせ、これらのヴィジョンと学びを体験させたことには意味があります。それはこの玉座の象徴することにあります。

高等司祭は、象の背もたれを持つ牡牛の玉座に座っている。背もたれは、まるで両翼のように描かれており、これは生きる苦役、労働の苦しみから飛び立って解放されることを示唆している。その苦役の無意味さへの十分な自覚が、探求者を異世探索の旅へ向かわせる。

レオン・サリラ『魔術師のトート・タロット』 P147

私たちが、個人でいることの快楽性のもとに生きる時、実は苦しみがついてくる。快適さに固執すると、不快さを排除しようとする。
物質的なことにおいても、心理的なことにおいても、同じ行動パターンが起こります。快楽を求め、不快なものを排除しようとすることは、どんな崇高な言い分を立てようと、"私は私でいたい" という個人の壁を守ることとつながっているのではないでしょうか。
それは、人間が悪戦苦闘し続ける、あるいは取り込まれ、自覚ある無しにかかわらず、その人が固執する、特定の欲望に従う者となる現実を生み出すのだと思います。

このように生きるだけでない生き方がある。
今のこの苦しみは、本当に背負い続ける必要があるのだろうか?ずっと繰り返して終わるのだろうか?
その問いをたぐり寄せ続けたら、出口を見つける旅が始まるのです。
鳩が啓示したように、こことは別の、新しい世界が確かにあるということに、心が開いていく可能性がある。その可能性が旅の入口となるのです。

このことを教えるために、オシリスは象の両翼のある玉座に座らせたのだと思います。

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