今日も光が灯されるさま
私が書くことの根底は、常に、師が教えてくださってきたことがあります。
私が気づいたこと、引用すること、感じることの起点はいつも、そこから始まっているはずです。
だから、私は何ひとつ得たわけでも知っているわけでもない。師や先人の言葉は光輝として何でもないただの人間である私をひたすら照らしてくださるだけです。このように捉え、言っていることすらも、私のものでないかもしれない。
それほどに、私からは何も生み出していない。
この埴谷さんの言葉が好きだった。
何か希望を感じ、そうなんだ、やっぱりそうなんだと思えていた。
今、自分の中をいくら探してみても、私の中に光るものなど何ひとつない。
私自身は、なんにもない。闇かもしれない。まっくらな、何もない闇。あるいは、空っぽだから闇のように見えるのかもしれない。
だから、生きているつもりで、ガラクタを、一生懸命集めて、置いて、並べてみるのかもしれない。生きているってどういうことかわからないから。
そこに希望はない。どう探しても、やはり見つからない。
神はおられる。師もおられる。神の子キリスト、復活。その力を信じる。師の偉大さを知っている。
でもその「つながり」、神の子と自分とのつながり、師と自分とのつながりを、信じることができない。
"この私に、そんなつながりが生じるわけがない" 。その力はあまりに強く、私をいいかげんな心へ戻らせようとする。
生じるわけがない。わけがない。
けれども、実在を信じるとき、師を仰ぐとき、その働き、光の力を、私なんぞが否定できるとでも思っているのか?
†
神とは、私が知っていると思っている、イメージの神ではない。
宗教などによって定義される神でも、自然によって定義される神でもない。
私のまったく知らない存在、それを私は神と書きます。キリストも、宗教的キリストの枠組みから解き放たれた存在として認識します。人間と世界の存在してきた全歴史において、キリストとはいかなる存在なのか?
. . .
瞑想のなかで、"信じていたくない" 何かを感じた。信じ切ると、自分が消えてしまう?止めようとするもの。意識のようなものを感じた。
おまえができるわけない、信じられるはずない
はい、私にはできません。
でもこの私、蓑虫みたいな私を、神が見放すはずがない。神はどうしよもない者にあらわれる。
じゃあ世の中のどうしよもない者たちはどうなるんだ?
私にはわからない。私はおろかな者に過ぎないから。
ただ、主に頼めと言われている。主に頼むものは主につながる。
. . .
#0 The Fool の視覚化に向かう。
砂漠にいた。そこにFoolが来られた。一緒に砂漠にいることをしっかり感じたくて、となりにおられる姿をしっかり噛みしめようとした。
夜空が見えてきて暗くなっても大丈夫、となりにおられた。
私がいる場所は、砂漠なんだと納得した。
この場所をよしとしようと思った。この「不信」という場所。ここもFoolが見守り、共にいる。
自分から離れることはひとときもないと示してくださるが、私はFoolが見えなくなりやしないかとチラチラ見てしまう。不信の表れ。
── 最も近い状態なのは、わたしたちが一緒になること やってみるか?
はいと応答した。
── あなたの中にいる けれどあなたの中のわたしは眠っている
私は目を閉じてFoolの感覚を探した、確かにある。
── わたしがあなたに、あなたがわたしになってしまったかのように感じてみなさい
── あなたがすること、その中にわたしが溶け込んでいるかのように
タロットが教えようとしていることが、体験的に表れていると感じた。
目を開けると、砂漠は緑の平原になっていた。砂漠でも霊的には緑なんだ。荒れ野が楽園になるということを思った。お礼を言って戻った。
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心を向き直らせて下さる、おそるべき力。
符合するのは、これらがすべて霊の言葉として生きているからなのですね。
不信という場所でも、共におられる。今立つ場。不信の場なら不信の場を受け取る。私が感じられるものは不信でもいいのではないか?信じる力は得るものではなく与えられるものなのだから。不信すらもタロットの世界の中にあることを信頼していくことだけではないか。
そうすると自分が不信にあるかどうかも、問題でなくなってくるように思う。不信はこちら側の問題にすぎないから。
現に今、不信はものを言えなくなった。
照らされるごとに身の程が見えてくる。そして身の程がわかるほど日常のなかで衝撃を受けることが増えてくる。その都度突き飛ばされる自分のとなりには、一瞬も離れることなく師のタロットの霊がおられる。
自分がどこにいようと。
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