思索の試み:民族の起点(1)
先日の投稿で少し触れた「民族の意識」への思いのきっかけとなった、ある朝鮮学校の閉校までの日々を追ったドキュメンタリー作品。その中でも特に強く残ったのは、ある家族、お父さんと娘さんの会話だった。
父親である80代のその男性は在日一世で、日本による侵略で朝鮮半島が植民地下にあった時代を生き延びてこられた。
終戦後も家族で日本にとどまり在日朝鮮人として生きるなかで、たえず日本人との違いを意識してきた。朝鮮民族として自覚も誇りもなく、朝鮮人に生まれたことを恨んだという。
その頃、日本では祖国の文化や言葉を取り戻したいとして現在の朝鮮学校の前身となるものが生まれ、当時300以上の学校ができていた。男性は大人になっていたが、仕事をしながら2年間通い、そこで初めて自分のルーツや言葉に出会った。
彼は云われた、
「それは私の人生の全ての出発。新たな、朝鮮人としての人生の出発がそこにある。
それがなかったら今日の私はない」
娘さんは父親である彼との会話の中で
「自分の生活を助けてくれたのが国(祖国)だったような世代でないせいか、自分と国とのつながりが薄くなっていると思う」と話されていた。
彼は「だんだん薄くなる」と返す。在日の生活も変わってきている、だから当然、考え方、生き方も変わる、と。
彼は続ける。
「人って豊かになったら個人の主張が高まるのよ。それが普通になっていく。
それが人生と思うようになる。
民族の立場からしたら、やっぱりさみしい面がある。昔とは違うけど、根本は変わってないよ。亡国の民よ」
娘さん「一生これでいかなきゃいけない、お父さんが自分で終われないように、自分も自分だけで終われない、子供にもいく」
それに対して彼は答える。それは大事なことであり、この時代を生きる人が、歴史の前において、絶対に守らないといけない自分たちの責務だと。
娘さんがそれはなぜ?と問いかけたとき、彼はこう云われた。
「民族の魂は、現実に何かしんどいから(とか)条件が変わったからって、放るわけにはいかない。命がけでみんな守るし、大事に育てていくし。頑張るやんか」
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自分の中の民族の意識を探ると、日本人というより日本国籍というだけな気がする。
けれども、海外に行くと日本人という感覚が浮き上がってくるのを思い出す。
自国にいるときには感じにくいのかもしれない。
でもそれよりも、この男性の言葉から感じるものが、とても大切に思った。
本当は、これらの言葉を記すだけでよくって、何も付け足す必要ないなと思う。
ただ、学びの記録という立場から、自分が何に感応していたのか、思索してみたいと思った。
今、歩んでいる「生の探求」とどこか重なりそうに思う。何を感じ取っているのだろう?
先日の、書きかけのような言葉を手がかりにしてみる。
"亡国の民" という彼の言葉は、もしかしたら自分自身にも通じるのではないだろうか。
* 念の為:ここで私が取り上げているのは、社会的(物質的)な国のことではありません。
この「地」において国籍を持つ者は、本当はいないのでは?と思った。
人類全員がある意味、ずっと「亡国の民」なのではないだろうか。
国や国境は、人が勝手に作ったもの。そして勝手に自分の国土と主張し合う。ゆえに奪い合い、侵略したりされたり、歴史の中の戦争はいつも、この繰り返しです。
何を守りたいのでしょうか。
彼が云われた、"個人の主張が高まること"と、切り離せないと思います。
"民族の魂は、現実に何かしんどいから(とか)条件が変わったからって、放るわけにはいかない。命がけでみんな守るし、大事に育てていくし。"
この言葉の中にとても大きなものがあると感じたのは、ここにはこの"民族の魂"のすべてを守り、治める者の存在が現れているからなのではないか。
自己主張でない、自分を守るのではない。民族の魂を守る。
民族というものは、人間のルーツに関わることなのだと思います。
それは私たちのルーツの根源は精神にあり、精神はひとつだからなのではないでしょうか。
その精神は、国家の中に収まれない。どの国だからとか、そういう問題ではない。政治にも宗教にも、個人の主張のどれにも関わらない。
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では、その精神の源は、どこにあるのでしょうか。
それは「創造」であり、創造は「霊性」という形態をとり、人間の精神である魂を自らに結びつけているのではと理解しています。
創造を存在的に表すと、内的宇宙、大宇宙とも、神とも言えます。
私の精神にとっての現実は、自分がこの「創造」の現である大宇宙の民の一人であることです。私の魂はそこに属し、その宇宙的秩序によって成り立つ主従関係において生きていきたい。
その原点は、創造の主とアブラハムとの関係に見出すことができます。
アブラハムは、精神のみならず実際の生活においても、いつも創造主を主(あるじ)として仰ぎ、自分の全存在を神の民として生きていました。
彼の生き方の中に、人間という存在の原点が、天と地、創造主と人間との関係性にあるということを見出すことができます。
したがって、彼の生きた歴史からはるかに遠い現代の私であっても、そこに連なり、彼のように生きることができるはずです。
そう言えるのは実際にそのように生き、実証されてきた先人が何人もおられるからです。私の師も、まさにこの生き方を継承されたのだと理解しています。
これは人が強制することではありません。
人とは異なるものが、その働きによって示し、教えてくださるということに尽きます。
すばらしいのは、これが才能や人間的優劣とは全く無関係なことです。
自分の場合で言えば、師の精神が、弟子である私の中に流れ込んでいなければ、私のような人間はこのことに関心も抱かなかったでしょう。そこに「異」なる働きがあるゆえに、流れ込むという現象が起こっています。
先ほど私は、自分は大宇宙の民の一人だと書きましたが、私自身には、空しいほどそれを証しできるものが何もありません。それでもこのことを感じられます。
それはおそらく、ベルジャーエフのこの言葉によるものではないでしょうか。
そして「地」に這う「私」にとっては空しいけれど、大宇宙の民であると感じている「わたし」にとっては、証しがあろうとなかろうと、もう関係ないのです。
宇宙的秩序としては無視できません、絶対的に必要です。しかしその件は魂が関わることではないと思っているのです。
その空しさは、そこにどんな高貴な理由や目的があろうと「嘘」だと感じてしまったからです。
真実だけでいい。だからたとえ証しなしで果てようと、すべてお任せです。それできっと問題ありません。
私の魂は、何も持ち得ないにもかかわらず、絶対的人間キリストとの証を有する師との絆によって大宇宙の中に完全に受け止められ、生かされている。その慈悲の巨大さだけで、そこに放り込んでいただいているだけで十分です。空しい感覚は「地の私」としてあるままに、魂の思いは今、大宇宙の中にいます。
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神の民、大宇宙の民として生きることは、この「地」に囚われた精神から解き放たれ、本来の人間的精神、神のもとに、大宇宙と共にあるという精神によって生きることなのではないだろうか。
それが、精神の運動へとなっていくのではないか。精神が停滞することなく、何かに囚われることなく、自由に変化・発展していく。それは大宇宙がそのように動き、生きているから。
このように書きながら、私は自分がもはや分かっているのかどうかも分かりません。ちょっと可笑しいですね。ただそのようにどこか感じられる気がして、それを辿ってみています。
やや思索が乱暴かも…もう少しゆっくり追うべきなのかもしれません。
できたら、この思索の続きを試みたいと思います。
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