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古着8点を115円と査定され、自信を失わず幸せを感じながら生きる方法を発見した話

昨日、大手古着買い取り店で、持ち込んだ古着12点のうちの8点で計115円と査定されました。

そして、自信を喪失することなく幸せを感じながら生きる方法があることにに気づいたのです。

もちろん、115円と言われて即座に幸せを感じながら生きる方法を見つけたわけではありません。そこには、このような経緯があります。

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きっかけは衣替えでした。

時代遅れだろうが、年齢にフィットしないだろうが、状態の良いものを処分することができない私。衣替えの度に「絶対に着ないのに捨てられないという服」の存在に悩まされるのです。

けれど、今年こそは!と、奮起し、長年眠らせていた23区のフォーマルスーツや卑弥呼のロングブーツなど私にとっては結構がんばって買ったものや、子どもたちの着なくなったユニクロやGAPなどのファストファッションなど、買い取ってもらえそうな12点を厳選し、近くの大手古着買い取り業者へ持って行きました。

どこかの誰かに使ってもらえたら、喜ばれるうえにお小遣いまでもらえる、なんて意気揚々に厳選古着を詰め込んだ大袋2つをスタッフに手渡した私。あ~、思い出すだけで恥ずかしい。

近くのおしゃれな犬カフェに入り、ランチにサラダとドリンクもつけ、娘と二人で4300円という何でもない日にしては贅沢なランチをしながら査定を待ちました。ちょうど食べ終わるころにLINEの通知が。

「きたきた」
と娘に目配せし、右手にアイスコーヒーを持ったまま、左手で軽やかにスマホを操作。買い取り業者からのメッセージを見て

「え。。。」
私、完全に顎が落ちていたと思います。

「そんなに高かったの?このランチ代も浮く?」
と珍しく気前のいい母に、娘も目を輝かせてた期待たっぷりにスマホの画面を見ました。娘もまさかの査定額115円に、飲んでいたオレンジジュースを吹き出しそうになっていました。

いや、さすがに古着買い取り店に持ち込んだ古着12点のうちの4点が査定不可能、8点買い取りで計115円と言われると言葉を失います。持ち込んだ古着ではなく、私自身が否定されたようなショックすら受けました。

 ~あれ、私の常識の基準ってかなりズレている?
  現代社会についていけていない?
  私の持ち物ってこんなに価値がなかったの?

予想外のことが発生すると、自信って簡単に崩れていくのですね。何か一つ崩れると、連動して違う自信まで崩れていくのが私の悪いクセ、弱いところです。

世の中に認められないって、思ってしまったとき、私は傷つきます。
  仕事に採用されない
  応募したコンテストに落選する
  販売したハンドメイド品が売れない

こういうのを繰りかえすと、原因を追究することすらせず、「私って才能がないんだな」、「何をやってもダメだな」と自信喪失に拍車がかかります。そこそこ自信があったから挑戦したわけで、それに対して「NO」を突き付けられるわけですから凹んでしまいます。いつしか挑戦することすら怖くなり、「どうせ」が口癖となり、不満タラタラの人生をあゆむことになる・・・

私って、そんな感じです。

そんな私が古着買い取り店で、自信たっぷりに厳選した古着にまで「価値無し」の烙印を押されたのですから、もう何に自信を持てばいいのか。。。これ以上絞り出せる能力は見当たりそうにありません。

査定結果が115円ということにも関わらず、お店のスタッフは私をカウンター席に座らせ、「この度はたくさんお持ち込みいただき誠にありがとうございました」と腰から曲げる美しいお辞儀を見せ、買取対象とならなかったものと、買取したものをやわらかい口調で説明してくれました。

恥ずかしくて耳を塞ぎたかったですが、そこは私もいい年こいたオトナですから、がんばって平静を装い、さらにはいかにも「初めての経験なんです~」という無知さをアピールしながら、査定の仕方について詳しく聞いてみました(私にまだ転んでもただでは起きないオバチャン根性が残っていて良かった。。。)

その買取業者の基準は、直近3年くらいの商品はウエルカム、2016年のタグ表示改訂以降の商品はギリ対象内。また、買取後すこし整えるだけで販売するため、毛玉がある服、傷がある靴などは買取しない、とのこと。オルゴールのような優しく滑らかなスタッフの口調に、終始笑顔で頷く私。確かに買う側に立つと至極当然のことと思えます。

けれど、わかっていても、この「古くて傷んでいるものは市場価値がない」という現実がまるで私自身に突き付けられたようで、作り笑顔の私の脳裏では、やっと起き上ったところにあったオルゴールの角に頭をぶつけてうずくまっている私がいました。

脳裏の私は、古着買い取り店のフロアに大の字に伸びきり、レフェリーのカウントを聞きながら、ふと、以前一緒に働いていた同世代の女性の就活の苦労話を思い出していました。

それは、いろいろな求人サイトで手あたり次第に応募したけれど、ほとんどが返信すらこなかった、という話。彼女は「この年だから仕方ない」と受け入れていましたが、あの時私は、慰めとかではなく、彼女を求める人や仕事は必ずどこかにあるはず、と思ったのです。

そして私は、自分の生き方のベースにある”間違い”に気付きました。

ノックダウン寸前で上半身を起こし、スタッフに115円での買い取りを拒否し、全てをバッグに戻してもらい、さっそうと店を出ていきました。

私の不用品も、欲しいと思ってくれる人はゼロではないはず。

「世の中」や「世間一般」といえば、どうしてもメインストリームを想像するけれど、世の中にはいろんな人がいて、いろんな価値観があって、いろんな事情を抱えた人がいます。私の持ち込んだ古着は、時代遅れだし、毛玉もあるし、傷もあるけれど、どこかの誰かが様々な理由から偶然にも「ちょうど欲しかった」と思うこともあるかもしれないのです。お店のショーウインドーにはそんなマイナーな需要を満たす商品を置くことはできないけれど、だからといって需要がゼロというわけではありません。

誰にも求められていなかった
のではなく
求めれられる場所ではなかった
ということ。

「世の中に認められたい」
そんな思いはきっと誰にでもあるはずです。私にもあります。その「世の中」というものの捉え方を、私は間違えていました。

大きな世の中全般を相手にして不要と認定されるたびに自信を無くすより、求めてくれる人がいそうな小さな市場でただ一人のマッチングする人を見つけることができれば、幸せを感じられ、自信につながります。「世の中」は真ん中だろうが端っこだろうが、「世の中」なんです。

インターネットが普及したおかげで、世界の隅々まで情報が届く世の中です。独りぼっちではないし、人と違うことで悩まなくてもいい。価値観を共有できる人を一人でも見つけることができたら、それはもうハッピーでしょ。

仕事も、友達も、自分の絵や文を好きだと言ってくれる人も、処分しようかどうか悩んでしまっている不用品を必要だと思ってくれる人も、探せばきっと見つかる。世の中ってそんなところです。見つけられないのは、探す場所を間違えているだけなんです。

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昨日、大手古着買い取り店で、持ち込んだ古着12点のうちの8点で計115円と査定されたおかげで、大切なことに気づけました。

どんな生き方をしていても、どんなことを思いめぐらしていても、この世の中には、共感してくれる人が、きっとどこかにいる。私たちはそれを見つけるツールを持っている。

それがわかると、怖いものがなくなりました。認められないのではなく、認めてくれる人を見つけられていないだけ。独りぼっちになる人なんてどこにもいない。探せば必ず、寄りそってくれる誰かが見つかるのです。

無駄に自分を傷つけないように賢く探す場所を見つければ、もっともっと自信をもっていろんなことに挑んでいける、そんな気がしてきました。

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びしばし。
最後までお読みいただきありがとうございます😊 他の記事も読んでいただけると嬉しいです。サン=テグジュペリの言葉を拝借するなら、作品の中にありのままの私がいます。それを探してほしいなと思います。 いただいたサポートはnote街に還元していきます。