誰も座らない席 │詩小説
駅のベンチには、いつものように彼女が座っている。
薄汚れたコート、ところどころ糸がほつれたスカーフ、小さなバッグ。髪は全体に白く、わずかに乱れている。指先は細く節くれだち、動きもどこかゆっくりとしていた。
行き交う人々の誰もが、ちらりと視線を投げるだけで通り過ぎていく。 隣のベンチは空いたままだった。
通勤時間帯の駅は混雑しているのに、なぜか彼女の隣だけはいつも人が座らない。視線を合わせようとしない人々の態度が、無言の壁を作っているようだった。
「またここにいるよ」「何してるんだろう」 耳に届くか届かないかの囁き声。彼女は聞こえていないような顔で、膝の上のパンに目を落としている。それは少し硬くなった昨日の残り物のようで、彼女はそれをゆっくりと口に運んだ。
ホームに電車が滑り込むと、メロディーが流れた。その旋律は昔から変わらない。
駅を利用するたびに聞いていたその音が、ふと彼女の胸の奥を揺らした。 息子が幼かった頃のことを思い出す。
週末、二人で出かけた日。手をつなぎ、列車の到着を待ちながら、彼は小さな声であのメロディーを口ずさんでいた。
あの時のあどけない笑顔、温かな手の感触――それは今も鮮やかに胸に残っている。
隣のベンチに座るように、息子の姿が現れる。記憶の中の幻影。短い髪を揺らしながら、彼女に微笑みかけている。
「また来たの?」彼女がつぶやくと、息子は小さく肩をすくめた。
「母さんもまたここにいるじゃないか」 声は柔らかく、暖かい。それが現実でないことを彼女は理解していた。
それでも、このやりとりが彼女にとっての支えだった。 人々は忙しそうに彼女の前を通り過ぎる。誰一人、彼女に話しかけることはない。駅のざわめきは大きく、雑踏の中で彼女の存在はますます埋もれていくように見えた。
「母さん、そろそろ行こうよ」 息子が声をかける。
彼女はふっと目を閉じる。
「いいの。ここが好きだから」 息子は何も言わず、しばらくその場に座っていたが、いつの間にか姿を消していた。
人々の波がひと段落する頃、彼女は立ち上がり、ベンチを後にする。その背中は小さく丸まり、駅を去る足取りはゆっくりとしていた。ホームには新しい人々の足音が響き、駅は再び喧騒に包まれる。
翌朝、駅のベンチに彼女の姿はなかった。
通り過ぎる人々の視線を引いたのは、その場に残された古びたハンカチだった。青い刺繍で「R」と書かれたそれは、彼女が誰かに託したい何かを秘めているようにも見えた。 駅にはざわめきが続いていたが、彼女のことを気にかける人は誰もいなかった。
ただ、息子の声だけが、遠い記憶の中で静かに響いているようだった。