見出し画像

自然

私が代表を務める整和館では、近い将来「自然と調和した人間らしい生き方を選択する時代」がくると考え、それに向けた支援を行っています。
では、この「自然」とはなにか?
いろいろありそうですが、今日は3つのことを書いてみます。

木々、土、風

自然で私がまず思い浮かべるのは、木々、土、風です。
海よりは陸、特に山が自然のイメージとしてしっくりきます。

この自然の中を走るとき、私はもっとも自然を感じます。
自然を感じるとは、幸せを感じるということでもあります。
私たち人間は進化の過程で、自然とともにあること、自然を愛することが刷り込まれています。自然に適応できなければ生き残ることができなかったからです。ただ、現代社会では、汚れるとか、不衛生とかいう理由で、自然と触れ合う機会が少なくなってきているのではないでしょうか。

私にとってもっとも身近な自然は自宅近くの砧公園です。
週3回くらいここでランニングしています。
ロードもありますが、お気に入りはクロカンコース(土の道)です。適度なアップダウンや木の根っこもあったりと、トレランに近い感覚が得られます。整地されていない道を走るとき、体の動かし方を脳が懸命に制御しようとしてよい刺激になります。

もうひとつ身近に感じる自然は東京周辺にある山々です。
特に高尾山周辺のコースは大のお気に入りです。

お気に入りのトレランコース:高尾山外周25km

小仏関跡の裏あたりから山に入り、堂所山まではほとんど人に会うこともなく、自分の息づかいと足音の他は、風の音や鳥たちの鳴き声しか聞こえない静寂の世界です。
その中で風を感じながら走っていると自然との一体感に包まれ、なんともいえない充実感、幸福感に満たされます。
ときに遠くでガサガサという音とともに獣臭が漂ってきて怖い思いをすることもありますが、それもまた自然ですね。

人智を超えたもの

そんな人間がコントロールできない世界、それもまた自然です。
想定外や未曾有といった言葉を持ち出すまでもなく、自然は人間のことなど考えてくれません。

リチャード・ドーキンスは、
「自然は残酷なわけではなく、単に容赦なく無関心なだけだ。」
と言っています。

だからこそ、私たちは自然に対して畏敬の念をいだき、昔の人はそこに神々を見出していたのではないでしょうか。
荘厳な山々を目の前にすると、圧倒されて言葉がなくなります。

私にとって自然は、畏れ、敬う対象でもあります。
自分の都合どおりにいかないからこそ、そこに合わせていこうとします。そして、適応しようとする過程を通じて、鍛えられるのです。

ながれ

自然はときに破壊的なまでのカオスを引き起こしますが、神が創り出したかのような完璧な調和もまた自然です。
季節が巡るたびに自然のながれを感じます。

道元禅師
「春は花夏ほとどぎす秋は月冬雪さえて冷しかりけり」

ひとつの方向に流れているというよりも、循環しているといったほうがいいかもしれません。

日本語でも英語でも「それが自然だね(It is narural that …)」と、無理がないといった意味で使います。それは、自然のように調和がとれていることがよいという万国共通の価値観なのではないでしょうか。

そしてこの自然のながれは私たち一人ひとりにも内在しています。
自分がしっくりくるながれに逆らわず、身を委ねる、導かれる、至極自然なことのように感じます。

自然との調和

「自然と調和する」というと大げさに聞こえるかもしれませんが、まずできることは、身近にある公園を散歩することでも、部屋に小さな鉢植えを置くことでもいいと思います。自然に触れるということです。

そして少しずつでも、自分なりの自然観を育てていき、自らの生き方をそれに近づけていくとよいのではないでしょうか。

今回は初めて自分にとっての自然を言葉にしてみましたが、まだ全然整っていませんね。さらに磨いていきたいと思います。

整和館ホームページ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?