樋口ビリヤニ

どうぞ、笑ってくだされ

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最近の記事

桃食うたら喉痒すぎ

夏が盛ってきよった酒井、桃買撃てきて食うたった。ばり喉痒い。 おそらく私はバラ科アレルギーである。林檎に、梨に、さくらんぼ。大概食うたら喉痒い。 毎度果物を食べている時に感ずるが、この期待はずれというか、腑に落ちなさというか、口腔内のつまらなさはなんであろうか。桃よりモモ味の方が美味しいし、林檎よりリンゴ味の方が美味い。第一、果物とは生臭いのである。その上皮を剥かねばならぬし、おかげで手はベトベト。ええこと一個もあらへん。 喉の痒みを抑え込むように桃を流し込み、一応 「やっ

    • ナザール石井

      タバコにコーヒー 元旦に御節 ブラビに南ちゃんなど「なくてはならない」ものは万物に必ずしも存在する。 私にとっての「なくてはならないもの」は間違いなく鼻炎スプレーである。 手のひらより少しく小さく、ノズル型の噴射口を備えたそいつに私は生かされていると言っても過言ではない。 年中鼻詰まりの私にとって、鼻炎スプレー無き生活は乃ち死を意味する。 自分の生活圏での最も近い位置、リビングで特に居心地の良い定位置から手の届く、半径1.5m以内にそいつがないだけで動悸がする。例えば外出。私

      • 随筆 春ぐるぐる

        九州の男は信用ならない。 彼奴等が口を開けば出てくるのは、酒、女、地元の怖い先輩。 如何に己が酒を喰らうか、如何に女にまたがるか、如何に地元の「達也」が怖いのか。 自己の「男性性」を誇示することのみを生き甲斐としているのである。 全くもってくだらない。 断っておくが私は生まれや肌の色で人を区別、差別は絶対にしない。レイシズムはこの世でいちばんの愚行であることは言うまでもない。ただ、下関より西で生まれた男どもが許せないのである。 私は今年の4月より新社会人になった。6年間の

        • 随筆 牡蠣まずいやろ

          表題の通りである。 牡蠣はすこぶる不味い。 この駄文を書くために一寸、味の想像をしてみただけでも気分が悪くなった。 私は魚介、特に貝類を食すにおいて第一に期待しているのは香りと食感である。サザエやムール貝を口にした時のあの強烈な磯臭さは酌を加速させる魅力的なものであるし、ツブガイや赤貝などは熱を通しても失われぬコリコリとした食感が咀嚼の楽しさ際立たせている。 一方、牡蠣の場合はどうだろうか。 あの噛み締めた瞬間に広がる海潮のごとき臭みは、本来酌の助太刀をする“磯臭さ”の度を越

          随筆 歯滅

          人相はその為人を表すとはよく言ったもので、その人の行いや思想はそれらの善悪に関わらず表情や顔色に現れるというものであるが、まさにその通りであり、もちろんスティグマ的な見識で他者を判断することは憚るべきだとは思うが、対人関係において第一印象は自衛のためにも他者を振り分けることにおいて最も重要かつ信頼すべき指針である。 となれば、私は歯列こそその為人を表すのではないかと思う。 さぁ、以下論説の如く歯列の悪い人間とその悪行について例として列挙し、持論の骨子として組み立て議論を展開

          随筆 四面楚歌

          ごくごく有名な故事成語に「四面楚歌」なる言葉がある。史記の『項羽本紀』の一説より引用されるこの言葉は、 「周囲が敵や反対者で、全く孤立して、助けや味方がいないこと。またはそのさま」(日本国語大辞典) との意味を持つ。中国古代史には全く以て明るくない上につまらぬ分野だと見做しているので、項羽が〜、楚が〜なぞと言われてもピンとこないのであるが、私がこの言葉を使用されている場に臨んだ時、些か釈然としない想いを抱くことが多い。彼らが「四面楚歌」を口にするとき、それがどのような状況下、

          随筆 四面楚歌

          随筆 オーガニック・ベビーカー

          「事実は小説より奇なり」など、バイロンよろしく現に擦り切れるほど使い古された言葉ではあるが、おおよそ私たちのような大した先進性もない人間が考えつくような与太話は、現実の域を超えることは到底できない。目を、耳を疑うような奇妙な事実は突如として眼前に現れ、至極当然の如く世界の一部として流れ去るのである。 それは、2020年秋スパイスに塗れたとあるカレー屋にて。 かの疫病にて世が侵せられる目前の晩冬、「音楽で飯を食う」などといった現実逃避と一丁前の承認欲求とが混在した、時勢にそぐ

          随筆 オーガニック・ベビーカー

          随筆 ふぐりクリフ

           壁は人々の生活を遮る。この遮蔽物によって初めて、人々の営みは「個」を獲得する。壁は人々に安寧を与えそして、剥き出しにする。厚薄によらず、壁の内と外とで「互いの姿が見えてさえいなければ」そこに他者など存在しないのである。  かの疫病に侵された初年の夏、私は川崎の山奥に佇む半ば崩壊しかけた荒屋にかろうじてぶら下がっていた。往年の上京物語さながら、「音楽で飯を食う」などといった夢見台詞を吐き捨てて威勢よく実家を飛び出したのはいいものの、兼ねてからの怠惰な性格と疫病の災厄とが重な

          随筆 ふぐりクリフ

          随筆 破廉恥電話

          2020年冬、東京に居た。 聞こえは良いが、ただ「居た」だけである。 根からのエゴイストである私は、尊大な自己顕示欲を満たすために「音楽で飯をくう」などと時代錯誤も甚だしい、使い古された台詞と共に実家を飛び出した。同年春のことであった。当時通っていた大学は「休学」という形となったわけだが、キッパリと辞めて逃げ道を無くさないことからここにも思い切りのなさや我が身可愛さが如実に現れている。なんとも情けない話である。 さて、意気揚々と首都・東京へと乗り込んだわけであるが、いかんせ

          随筆 破廉恥電話