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【おとなの文章表現 ♯002】一文を生きる。
物事には「はじまり」と「おわり」があります。
人生は有限であり、生まれて死ぬ。
しんどい仕事も、続けていればいつか終わる。
終わりのない苦しみはなく、永遠に続く僥倖もまたない。
1日は朝から始まり、夜で終わります。
といっても午前零時の瞬間は、始まりでもあり終わりでもあり、この世界には、分けられないものが存在します。
河合隼雄さんは「分けられないものを明確に分けた途端に消えるものを魂という」とおっしゃっているようです。確かに生と死で人間を分けてしまうと、魂は消えてしまいますね。
ところで、文は書き出しから始まり、まる(句点、「。」)で終わります。
意図的に句点を使わない詩人のような書き方をするひともいますが、私は、最初の一文字を書き出したときに文は生まれ、句点で締めたときに静かに文は息を引き取る、と考えています。
というわけで、第2回のコラムは「一文を生きる」。
人生は刹那の連続体ですが、
文章も、まる(句点)で区切られた短い文の連続体です。
ちなみに刹那とは、仏教の言葉で最小の時間単位をいいます。
1回ぱっちんと指をはじく間に、60から65の刹那があるそうです。
「いまここ」に現前する日常の刹那をていねいに生きることと同様に、一文をていねいに書く、あるいは読むことが大切と考えています。
なぜなら自分にとって、書くことと読むことは、生きることと同意義だからです。残り少ない有限の時間をやりくりして、この時間を紡ぎ出しています。だからといって焦らず、速読しようとも思わないし、高速で書き散らそうとも思わないのですが。
そもそも文章は、時間軸の表現でもあります。
言葉は時間に沿って流れていき、逆行できない。回文もありますが、砂時計をひっくり返すようなものだと思います。砂は上から下へと流れて、下から上には流れない。
二度と繰り返せない一文を生きることが大切です。
といっても「無駄な文章を書いちゃったなあ」という一文も無駄ではありません。無駄をまっとうすることに意義がある。
一文から次の一文へ、誕生と死滅を繰り返し、刹那の連続体として文章をつなげていくことが、自分の人生を文章として生きることになります。次の一文字を書き始めるとき、文は息を吹き返す。
大きな目で眺めるなら、人類自体もそうやって過去から現在にバトンをつないできたのではないでしょうか。
文章は、人類のバトンでもあります。
2024.08.14 Bw