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何を書くかより、どう書くか。

連休が終わった。休みが明けた途端に雨が降り、新緑が濃い。

かつて連休や晴れた休日には、どこか行かなくてはという強迫観念があった。しかし、そういう執着から解放されつつある。どこにも行かなくても十分に楽しい。自分は自分。やらなければならない課題はたくさんあり、やりたいこともたくさんある。

ところで、最近は「何を(What)」よりも「どう(How)」に目を向けていきたいと考えている。何をするかより、どのようにするか。テーマよりプロセス。結果を出すまでの過程を大切にしたい。

日々の生活には、やらなければならないことが多い。たとえば掃除や洗濯のような家事全般など。これらを先延ばしにしていると、いろいろと困る。何をやろうか、どれからやろうかなど、やるべきことにこだわり続けると気持ちが塞いで、なかなかやらないものだ。

まず「何を」という優先順位をちゃちゃっと決めたあとで「どうするか」を考える。そうすると、こころの負荷が軽くなる。

「この面倒くさい課題をどうやって解決するかなあ」と思案する時間は、意外に楽しい。連休中に大量のモノを捨てて、玄関にある金と銀の木犀の枝を剪定したが、片付けの手順はいったん分解して細分化する。その後でふたたび組み立てて、やってみて調整する。細かくPDCAを回してみる。仕事じゃないけどね。

「どう」というのは「Do」であって、行動につながる。

演算処理によって迅速かつ効率的に結果を出すのは人工知能に任せておけばよいことであり、人間知能はプロセスを楽しんだほうがいい。そして、効率的にやるにはどうするかを考えることにも、楽しみがある。

面倒くさいこと、うまくできないこと、時間がかかることにこそ、人間が取り組む意義がある。結果ばかりを重視していると大切なものを見失う。

プラモデルは作っている時間が楽しい。DTMはピアノロールに音を置いていくオルゴール職人みたいな作業の没入感が尊い。文章は推敲していると時間の経過を忘れる。テニスなら素振りをしているときだって、いい汗が流れる。もちろん競うのであれば結果も大事だ。結果とプロセス、どちらかが大事ということではない。

文章を書くことに関していえば、国語の授業は別として、何も書きたいことがないのにムリにお題を探して書く必要はないと思う。「何を」というテーマは、自然にぽっと生まれるものであり、おおっテーマが生まれたなあ!というときにキャッチして書けばよい。書けなかったら手放す。キャッチ&リリースをすることで、いつかまた機会がやってくる。

しかし、インターネットの言葉の海から「何を」書くかテーマを探した文章はつまらない。

コラムやエッセイを読んでいて面白いのは、インターネットの外から得た何かを書いているテーマの文章だ。読書や音楽や映画であったり、どこか旅行へ出かけたことであったり。当然のことながら、何かを書くためにどうするか決めるのは、本末転倒のような気がしている。

もう少し「どう書くか」について、いま自分が考えていることをまとめていきたい。

まず、否定もしくは批判よりも肯定を書きたい。肯定的な文章としていちばん強いのは、感動や発見ではないだろうか。めっちゃ泣けた!面白かった!という高揚感を表現できると嬉しい。音楽でいえばグルーヴやバイブスのようなものかもしれない。そんな人生の全面的な肯定や躍動感を書きたい。

かつては、いやいや、そうはいってもダメなものは否定して批判すべきでしょ、しっかり批判を書くことが大切、と考えていた時期があった。

しかし、あらゆるものは裏返しの状態にあり、否定の裏側には肯定がある。だからこそ強い肯定は否定になり得る。コインの表をみるか、裏をみるか、という視点だけの問題だ。

あえて否定を書く必要はない。批判をしたいなら、逆の観点から肯定を書けばよい。強烈な肯定は、何かを否定する文章よりインパクトのある批判になるかもしれない。

最強の自己肯定感とは、自分の弱さやネガティヴさをすべて受け入れて認めることであり、だからといって威張ったり他者を見下したりすることではないのだけれど、生命に対する絶大的な信頼がある。そんな文章を書けるひとは後光がさしている。眩しい。

といっても、世界は肯定と否定の二元論で成り立っていない。グラデーションがあり、ゆるやかな<あいだ>が存在する。勾玉のような白黒で円をなす陰陽の太極図のようではなく、色相環のようなものではないか。

人生が灰色にみえるのであれば、対極には補色の人生があるのだけれど、その対極までは、ぐるりとグラデーションの色がつながっている。補色の人生は難しかったとしても、ちょっとだけ色相環のとなりに移動することはできそうだ。となりへ、となりへ、と移動していくうちに、いつの間にか、反対側に辿り着いているかもしれない

そもそも「あいつはダメだよね」「あれは終わったね」みたいな断定的な批判の裏側には、あいつやあれに対する憧憬だったり、ひがみがあったりするものだ。批判することによって、自己肯定感を高めようとしている場合も多い。要するに批判ばかりしている人間は、自信がない。

否定や批判を続けているうちに、ネガティヴな言葉によって、こころが侵食される。いやーな人間になっていく。冷静になって「他人を批判するお前はダメじゃないのか、凄いのか、神様か?」と自省したならば、自分はそんなことを言える立場ではないこと、他人をジャッジできるほど偉くはないことに気付く。謙虚さは大切だ。

「どう」にこだわり続けて考察しているうちに長くなったが、こういうだらだらした思索もどうだろう?と考えている。

思索はてきとうに切り上げて、面白いこと、楽しいことをどんどん体験し、書くのであればストレート&スマートに自分の体験したことを臨場感とともに書くのがいい。どうどう巡りをしているだけでは、どうしようもない。しかし、自分にとっては、思索の時間も現実における日常のひとつであり、あれこれ考える時間がとても楽しい。

まあいいか。思索にしても行動にしても、人生、楽しむのがいちばんです。

2024.05.08 Bw