『DORONJO/ドロンジョ』を観て、日本の文化と正義について考えた。
昭和の時代に人気があったヒーローの映画、テレビ番組が、令和になってからリメイクされることが多い。ゴジラ、ウルトラマン、仮面ライダーなど、日本だけでなく世界でヒットしている。
リアルタイムで作品を体験した昭和の世代には懐かしさを感じさせ、平成や令和の新しい世代には、逆に新しさを感じさせるのだろう。CGやVFXが進化することによって、解像度が上がってリアルになった。同時に当時にはなかった解釈や、新しい設定に魅せられる作品になっている。
日本はものづくりの国として名高かった。アニメを始めとするコンテンツにおいても優れている。その意味では、ヴァーチャルな世界のものづくりにおいても伸びしろがあるのではないか。AIがめざましい勢いでクリエイティブの分野に拡がっているが、人工知能の技術にも可能性がある。
ということを考えながら土曜日の夜に『DORONJO/ドロンジョ』を観た。
2022年にWOWOWで放送された11話完結のドラマだそうだ。タイムボカンシリーズの『ヤッターマン』が原作で、タツノコプロ創立60周年記念ドラマとして制作されたらしい。
コミカルなアニメの印象があったのだが、予告編で観た映像はまったくのシリアスだった。悪役のドロンジョがドロンジョになる前のストーリーであり、彼女はボクサーを目指している。池田エライザさんが演じるという。これだけで興味津々。期待が募る。
第1話だけ試しに再生しようと思って観始めたところ面白くて、夜が更けるのも気にならず、全話コンプリートしてしまった。ボクシングの場面では観客がまったくいないのが物足りなかったけれど、試合はネット配信という設定になっている。それぞれのアクションに迫力があり、エキサイティングだった。
正義と悪という対比のダークエンターテイメントとして思い浮かべるのは、やはりDCコミックスを原作とする『バットマン』に対して、ホアキン・フェニックスの演技が壮絶だった『ジョーカー』だ。悪役が生まれるプロセスを描いた『ジョーカー』は2019年に大ヒットした作品であり、日本では京王線の電車内において17人を負傷させる事件まで引き起こした。
ボクシングの名作といえば『ロッキー』をはじめとした作品群がある。さらに、表舞台で闘えなくなったドロンジョになる前の泥川七音(池田エライザさん)は、地下格闘場で闘うのだが、ブラッド・ピットとエドワード・ノートンがやたらとかっこいい『ファイト・クラブ』を思い出した。
という風に、さまざまな名作映画をオマージュしつつ、日本風にアレンジしてしまうのは、さすが日本のエンターテイメント。海外の文化を柔軟に取り入れてカイゼンするのは、日本の優れた特長のひとつである。
映像の色調処理についてはよく分からないのだけれど、青みがかったトーンなど深みのある世界観が心地よい。
正義を代表するアイちゃんこと聖川愛花(山崎紘菜さん)は白を基調としていて、悪を代表する泥川七音は黒という対比も分かりやすいし、印象に残った。ちなみに山崎紘菜さんの外にはねる髪型が好み。
ストーリーのあらすじについて少し触れておくと、ドロンジョになる前の泥川七音は虐待と貧困の中で育ったボクサー。彼女のライバルは富裕な家で育ち、SNSのインフルエンサーとしても人気のある聖川愛花である。ふたりは真剣勝負の試合をするが、泥川は反則で勝利を得る。ところが、その試合の帰り道、何者かにひき逃げされて泥川は左足のひざから下を失う。
足を失った泥川は自暴自棄になるが、誰かが義足を届けてくれる。その義足を付けて、聖川と闘うために頑張るのだが、どんどん落ちぶれて悪の道に入っていく。一方、泥川の代わりに世界チャンピオンを達成した聖川は、世の中から悪を撲滅するために幼馴染のガンちゃん(金子大地さん)と「ヤッター1」というWebサイトを作る。このコンテンツは悪事をユーザーが投稿することによって、世界を救う自衛組織なのだが・・・・・・。
いま気づいたのだが、闘う女性のふたりの名字には、ともに「川」が流れている。一方は「泥」であり、もう一方は「聖」だ。しかし、泥の川が悪であるかというとそうともいえず、聖の川であっても清らかとはいえない。川の流れは絶えずして、もとの水にあらず。川だからこそ生成変化する。人生のメタファともいえそうだ。ふたつの川は交わることがないが、それぞれの流れのなかに生がある。
見どころは、「七音ちゃん、あなたには幸せになってほしいの」と涙を流す聖川が、泥川と血まみれになって素手で闘うシーンだ。闘いながら笑うアイちゃんの顔がめちゃめちゃ怖い。ストレートのぐーパンチで泥川の顔面を何度も殴りつけた後で「ははははは!」と高らかに笑い声を響かせるシーンは狂気じみている。山崎紘菜さんは、ものすごい演技力のある女優さんだなあと思った。
この作品を観て考え込んでしまったのは、単純な勧善懲悪が通用したのは昭和の時代までであり、令和の現在、ものごとは途方もなく複雑多様になっているということだ。何が正しいのか、何が悪なのか、まったく分らない。
世界が間違っているから、悪を貫いていいのか。食うために悪に染まってもよいのか、武士は食わねど高楊枝なのか。悪を正すために制裁を下すことが正義なのか。いったいどういう観点で善悪をジャッジすべきなのか。他人を思いやることは偽善であり、結局自分の快楽のためではないのか。SNSのタイムラインに批判や共感のコメントをたれ流しているだけで世界に関わっているといえるのか。などなど。
ただ、このドラマを観て、山崎紘菜さんの演じる聖川愛花にも、池田エライザさんの演じる泥川七音にも魅力を感じた。田中俊介さんのエース、矢本悠馬さん、一ノ瀬ワタルさんのそれぞれが愛すべきキャラクターである。何が正しいのか、何が悪なのかは自分にはジャッジできないが、みんなドラマのなかで正しく生きていた。正しくあろうとしていた。
複雑で多様な現在、自分で正しさを選択していかなければならない時代なのかもしれない。
2024.6.30 Bw