旧東海道ウォーク㊾ 坂下宿→土山宿
2023年9月17日(日)。
箱根峠、薩埵峠、宇津ノ谷峠と踏破し、最後の大きな「峠」は鈴鹿峠。
一歩づつ踏みしめながら、山道を上っていきます。
1.片山神社
2.鈴鹿峠
3.山中川
4.猪鼻村
5.田村神社
6.<第四十九番>土山宿
1.片山神社
この辺に、岩屋観音という石仏三体があるというのだが、これは違うよね。
鈴鹿峠を越える国道1号は、上下2本に分かれているらしく、迂闊に合流すると逆走になるから、要注意です。
ただ、街道ウォーカーには無用の心配?
このあたりに、元坂下の一里塚があったとされるが、痕跡もなく、位置も定かではないとのこと。江戸から百八里目。
このあたりは「古町」と呼ばれ、かつての坂下宿があった場所。
1650年の大洪水で宿場が全滅、今の坂下集落に移転したらしい。
と言われても、道らしい道も人家も全くなく、ハイキングコースの途中のような山中。ここに宿場町があったなんて、信じられません。
さらに参道を進むと、片山神社の鳥居が見えてきました。
片山神社は、鈴鹿峠の守護神を祀る、坂下宿の氏神様。
この山の中なら、剣術や忍法が生まれても不思議ではない気がします。
2.鈴鹿峠
片山神社の鳥居前で、東海道はU字にカーブ、さらに峠を目指して上ります。
かつてこの峠越えをした、大名や武士、商人、その他多くの旅人たちも、この風景を眺めたのだろうか。
片山神社の標柱を過ぎて約20分、ようやく鈴鹿峠にたどり着きました。
この峠、三重県側は急坂だが、滋賀県側はほぼ平らな地形。これまでの険しい山道が、峠を越えたら車も通れそうな農道に様変わり。緩やかな道でほっとしたけど、ちょっと驚きです。
天気も、伊勢は小雨だったが、近江は晴天。これは嬉しい。
滋賀県が茶の産地という印象はなかったが、この先も茶畑がよく見られました。
最澄が唐から持ち帰った茶を比叡山麓で栽培したことから日本最古の茶の栽培地とも言われているそうです。
特に、なだらかな地形、寒暖の差がある、などの条件が揃うこの地域の茶は、土山茶として知られているとのこと。
常夜灯には、静岡県内は秋葉信仰、三重県北部では多賀大社など、地域的な信仰に由来するものが多く、ここは甲賀郡中の金比羅神社に信心ある者たちの集団(万人講)が建立したものです。
四国のこんぴらさんの信者が多いのは、近江商人のネットワークでしょうか?
3.山中川
2004年に5市町村合併、甲賀市が誕生。
「こうか」と「こうが」の2つの読み方が存在したが、郡名が「こうか」のために市名も合わせたとのこと。
山中川はこの先で田村川、さらに野洲川に合流して、琵琶湖にそそぎます。
滋賀県内には約450本の河川があり、1本を除いて全てが琵琶湖に流入しており、唯一、瀬田川だけが琵琶湖からの流出河川です。
地形的にも、琵琶湖に向かって下っていくことになります。
分岐の先の小公園で、休憩します。
鈴鹿馬子唄の「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山雨が降る」は、
・坂下宿 ⇒ 晴れ
・鈴鹿峠 ⇒ 曇り
・土山宿 ⇒ 雨
の意味で、代表的な天気がこうなのでしょう。
今日の天気で言えば、
・坂下宿 ⇒ 曇りときどき小雨
・鈴鹿峠 ⇒ 晴れ
・土山宿の手前 ⇒ 晴れ
といったところでしょうか。
4.猪鼻村
ここから約500mほど、旧東海道が消失しています。
正しくは、ルートはわかっているが、歩くことができない、ということ。
通行できない区間は、並行する国道をそのまま歩きます。
猪鼻は、東海道の「間の宿」。
この先に小さな峠があり、休憩する茶屋も多くにぎわったらしい。
今では、山間の静かな集落です。
五十三次の宿場以外にも、このような歴史の足跡に触れられるのは、街道ウォークならではの発見です。
旧道は、山中川から少し離れて山中を通り、土山宿へ向かったようです。
5.田村神社
㈱ジーテクトは、自動車の車体や部品を扱うグローバル企業。
1950年代に和歌山と東京で生まれた2社が、2011年に合併して生まれた企業。合併後の本社は、なぜか埼玉に。
ここ滋賀工場は、和歌山の企業が1966年に設置して以来、半世紀以上経ちます。
伊勢の北畠氏が山中城を攻め、この地で合戦が繰り広げられたとのこと。
山を越え領地拡大を狙ったのだろうか。
かつての東海道は、田村川を渡らずに川沿いを左へ進んでいたようですが、川の氾濫を避けるために、1775年以降はルートが変わっています。
この先、新しいルートを辿ります。
鈴鹿馬子唄にも、「あいの土山 雨が降る」と歌われてます。
今は晴れてますが、この先の空模様はどうでしょう?
田村神社
初代征夷大将軍の坂上田村麻呂を主祭神とする神社。
この地で生まれたというわけではないが、鈴鹿峠に棲む鬼を退治した伝説が残っているようです。
二つの鳥居の間は神社の敷地内ですが、参道が旧東海道となっている珍しい区間ですね。
今日の行程では、スタートの亀山宿と次の関宿が朝早い時間、次の坂下宿も鈴鹿峠もずっと店や食堂がなかったので、やっと昼食にありつけました。
6.<第四十九番>土山宿
食事を終えてさらに進むと、間もなく土山宿に入ります。
私の友人で、すでに東海道(どころか五街道全て)を歩いた人が、「東海道では土山宿がベスト3に入る」と言ってます。
旧街道らしい街並みや格子戸の家並みが続く雰囲気が非常に良かったでそうで、楽しみにしながら歩きます。
俳句に読まれた「お六櫛」は、旅の途中にここで看病を受けた木曽の旅人が御礼にと技法を伝え、その後は土山の名産となったそうです。
近江と木曽をつなぐ街道ならではのエピソード、いいですね。
土山宿内の旅籠跡には、標石が建ち、往時をしのぶことができます。
森鴎外の祖父、森白仙は、津和野藩の参勤交代に典医として同行したが、ここで亡くなったとのこと。
愛知県の二川宿本陣資料館で、実際の駕籠も見ましたが、かなり狭いです。
エコノミー症候群にならなかったのか、心配です。
大名行列を調べていたら、面白い話があったので書きます。
・1日平均40kmを進む。(私の街道ウォークは33kmが最長・・)
・時代劇で見る「下に~、下に~」の掛け声は、尾張と紀州の徳川藩のみ。
その他の藩は「寄けろ~」だった。
・行列の前を横切ることは許されるないが、飛脚と産婆は例外だった。
運送と通信、出産は最優先事項。
・同じ宿場に滞在した最長記録は、日向佐土原藩の77日。
参勤交代道中の草津宿で藩主が急死。嫡男を後継とする手続き(これを怠ると御家断絶に)に時間がかかり、長期滞在を余儀なくされた。このあとの財政は大丈夫だったんですかねぇ。
伝馬所とあるが、これまで各地にあった「問屋場」とほぼ同じ。
問屋場跡の石柱や案内板ばかり見てきたが、実際の様子はこのようになっていたんですね。
飛び出し坊やは、滋賀県東近江市が発祥の地。
滋賀県内ではますます出会う機会が増えそうな予感。
明治元年の東京行幸の途中、明治天皇はここで16歳の誕生日を迎えた。その1か月前に明治政府は、天皇誕生日を天長節として祝うことを決定しており、ここで初の「天皇誕生日」を迎えたそうです。
滋賀県最初の宿場町、土山宿を過ぎ、次は水口(みなくち)宿。
時折太陽が雲に隠れるようになってきました。
あいの土山雨が降る、にならないうちに先を急ぎます。