旧奥州街道ウォーク① 宇都宮宿→白沢宿
こんにちは、ばーどです。
東海道、日光街道を歩き終え、その次は奥州街道へ。
江戸から宇都宮宿までは日光街道で歩いたのでその先、終点の白河宿まで、GWの3日間で歩くことにしました。
初日は、宇都宮宿から喜連川宿まで26kmの行程です。
1.<第零番>宇都宮宿
2024年5月3日(金)。
1か月前に日光街道の最後の区間(宇都宮~日光坊中)を歩いた時と同じく、今回もスタートは宇都宮宿。
左へ折れる日光街道と分かれ、直進。
1か月前(4月6日)は時折小雨が降る曇り空で、桜も三分咲きでしたが、この日は晴天で夏日予想。季節の移り変わりは早いですね。
宇都宮を抜けるまで市街地を進みます。
繁華街の雑居ビルに囲まれた寂れた公園に、「行在所」など3つの石碑。
かつての豪商の屋敷跡だというが、今の環境はあまりよろしくないようです。
宿場町だった当時の、道の両側に店が並ぶ風景。店の形態は変わっても、流れは今も変わらないかもしれませんね。
おしどりのつがいの愛情話。ほっこりします。
ガッツ石松は栃木出身。この会社ももしかして栃木が本社?と思ったが、調べたら名古屋でした。栃木で「ガッツ」を見たのは、たまたま偶然だったみたい。
1か月前は、川沿いの桜が咲き始めできれいだった川です。
ここが宇都宮宿の、奥州街道の北口(白河口)にあたります。
交差点の角にある、旧篠原家住宅は、国指定重要文化財。
どっしりと重厚感がある商家と蔵は、市街地の一角で異彩を放つ存在感です。もう少し待つと内部見学ができましたが、先を急ぐので外観からの見学で。
2.首切り地蔵
宇都宮宿を抜け、北へ向かいます。
ここが、奥州街道が新幹線と出会う、最後の地点でした。
このあたりに、竹林の一里塚があったとされるが、詳細位置は不明です。江戸から二十八里目。
交差点で街道を少し離れ、右へ50mほどの場所にあるのが、首切り地蔵。
宇都宮藩の処刑場だった場所で、あまり気持ちのいい場所ではないが、住宅街の中にある開けた場所だったので、ちょっと安心しました。
いくつか並ぶ地蔵様や石碑に、しっかり手を合わせていきます。
宇都宮市が推進する「サイクル&バスライド」。いい取り組みです。
歩道が狭いと設置できませんが、道路拡張時に駐輪場スペースを確保できれば、十分可能ですね、
3.海道
街道沿いの中華食堂が「かいどう」。
これは、この辺りの地名が「海道(かいどう)」だからでした。
少し話はそれますが・・・・、
江戸時代の五街道のうち、甲州街道、日光街道、そしてこの奥州街道は、1761年に幕府道中奉行(今の国土交通大臣みたいな?)の定めにより、「●●街道」ではなく「●●道中」と呼び名が統一されました。海の道ではないから「海道(街道)」ではない、ということのようです。同時に中仙道が「中山道」に改められています。
このブログで、奥州街道の前の日光街道を歩く途中で、街道ウォークの先輩から教えてもらいましたが、このブログでは引き続き、奥州道中ではなく奥州「街道」として紹介していきます。
このあたりに、海道新田の一里塚があったとされるが、詳細位置は不明です。江戸から二十九里目。
幕末期に水路を開き、海道新田を開拓した小林清次郎を称え、村民が建立したとされています。
街道を歩くとよく目にする、新田開発や用水路整備の功績碑。水と農地を整備することがいかに大変だったか、考えさせられます。
4.稚児坂
稚児坂。
ここまでずっとほぼ平坦でしたが、初めての坂です。頼朝の命で奥州に赴く伊沢家景が、この地で稚児を病で亡くしたことから名付けられたと言われています。
5.<第一番>白沢宿
白沢宿のあった旧河内町は、2007年に宇都宮市と合併。
やげん坂を下る途中にある、江戸時代の公衆便所跡。
あまり表に出したくないのか(笑)、正面からは目隠しされていて、裏側から中を覗き込むようにして、見学しました。(写真がピンボケで失礼)
1600年、奥州上杉攻めで北上する徳川軍を地元の庄屋である宇加地家と福田家が道案内し、無事に鬼怒川を渡河させた功績が認められ、宿駅を設ける際に両家が本陣と脇本陣を勤めたそうです。
久郷半川。
久ヶ郷と半郷という、二つの新田を潤す川であることが、由来。
正午を回り、気温も上がってきました。
初夏の風を受け、遠く日光連山を眺めながら、次の氏家宿まで進みます。
宇都宮宿→白沢宿
距離 11.1km
所要 2時間55分(休憩除く)