旧甲州街道ウォーク① 日本橋→内藤新宿
こんにちは、ばーどです。
2022~23年に旧東海道を、2024年の前半に旧日光街道と旧奥州街道を、完歩しました。
(このブログに載せてますので、よかったらご覧ください)
ここまできたら、五街道をコンプリートしたい。
ということで、残り2本の中まず旧甲州街道で下諏訪を目指すことに。
1.日本橋
2024年6月8日(土)。
自宅から、東京メトロで日本橋へ。
スタート地点に降り立つのも、3回目。
関東大震災で被災して築地に移転。現在はさらに豊洲に移転してますね。
上を走る首都高速の地下化工事が始まりましたが、完成は2034年予定。
その頃の風景はどうなっているか、楽しみです。
丸の内トラストタワー(左)と東京駅日本橋口(右)の間を進みます。
2.東京駅を抜ける
一見、納品車両の荷下ろし場のようですが、ここが旧甲州街道。
突き当りは東京駅に直結する大丸デパートですが、ここはかつては北町奉行所跡。あの「遠山の金さん」が裁きをしたお白州の場所が大丸デパートとは、びっくりです。
<追加> 大丸の前に新しく建設された、グラントウキョウノースタワーの前に、北町奉行所の位置を示す説明板がありました。
<追加終わり>
さて、ここから旧甲州街道はなんと東京駅構内を突き抜けます。
正確には、旧街道だった場所に後から駅が出来たわけなんですが、驚きですね。
地図があったので、赤矢印でルートを上書きしてみました。
夜はサラリーマンで賑わう場所ですが、実は甲州街道沿いで飲んでいたとは、皆さんたぶん知らないですよね。
3.皇居
江戸初期に朝鮮使節の曲馬を将軍が上覧したことから「朝鮮馬場」と呼ばれたのが由来。門は1629年に築造されましたが、枡形石垣が1906年に撤去されました。日露戦争の戦勝行列のための道路拡張のためとも言われていますが、何とももったいない。
桜田門交差点で、国道1号と国道20号が分岐。1号警視庁の左側を南下し、20号は右側を濠沿いに進みます。
国道20号は甲州街道を整備した国道で、ゴールの下諏訪までほぼ一緒、さらにその先の塩尻市まで伸びる国道です。
三宅坂交差点を過ぎると、隼町。現在では最高裁判所や国立劇場があるエリアで、日本橋から一里の距離。
「隼町の一里塚」があったとされていますが、その場所や痕跡は不明です。
皇居と江戸城。
東京で生まれ育った者からすれば、皇居の呼び方のほうが何となく普通。
だが、それは皇族がお住まいだからそう呼ばれるだけで、各地にある「●●城跡」という呼び名に合わせれば、ここは江戸城になります。
半蔵門。
伊賀の旗本、服部半蔵の屋敷が門外にあったことからこの名がついたそう。
半蔵は世襲制で、しかも忍者だったのは初代半蔵だけで、二代から最後の十二代までは伊賀藩や桑名藩の藩主だったとは、意外。
4.四谷見附
半蔵門で皇居を離れ、麹町から四谷へ。
入り組んだ「小路」が多い
麹を扱う店が多い
各地の国府(こう)に通じる道が多い
どれもあり得る。
出発して1時間以上経ちましたが、その日最初に街道沿いにあった神社や寺に、1日の無事を祈願することにしています。今日はここで祈願。
四谷見附の前後の枡形です。
明治に入り江戸城防御の役割が消えても、大正3年に国道20号を直進する橋が建設されるまでは、クランク状のままでした。
直進する橋上に市電を走らせるのが、橋の建設の理由だったとか。
5.<第一番>内藤新宿
国道20号(この区間は新宿通り)は、四谷四丁目交差点で、二本に別れます。
右が旧街道、左は新宿御苑の下をトンネルで抜けるバイパスです。
分岐地点のすぐ先に、碑が並んでます。
あとの2つは、玉川上水に関する碑。
武蔵野台地を東西に走り、江戸城下の生活用水に欠かせない重要な水道は、まずこの地まで引かれたそうです。
ちなみにこの碑の後ろ建物には、東京都水道局の営業所が入ってました。
新宿御苑。もともとは、家康の家臣だった内藤家が、長年の御功により得た広大な屋敷地だった場所。
当時の甲州街道は、日本橋の次が高井戸と長距離で、人馬の継立のため新たな宿場を設けることになり、1699年に内藤屋敷の一部を割いてできたのが内藤新宿。
家臣に分け与えた土地を、今度は宿場造成に召し上げるというのは、少々疑問でしたが、どうも二代将軍の時代に内藤家は徳川に干されてしまったようで、厳しい仕打ちだったのかもしれません。
「内藤家の屋敷跡に設けた新しい宿場」→縮めて「内藤新宿」と名付けられた町。今の地名はさらに縮めて「新宿」となり、移り変わりを感じますね。
内藤新宿は、東海道の品川宿、中山道の板橋宿、日光街道の千住宿と並んで「江戸四宿」と呼ばれ、人や物資の集散地で栄えたが、飯盛女という名目で遊女が多く、色町の賑わいも見せたようです。
実際に内藤新宿は江戸時代に何度か、宿場の機能の停止を命じられていて、風紀取り締まりの目的もあったとか。
甲州街道と青梅街道の分岐点、新宿追分。交差点に堂々と建つ、伊勢丹新宿店が目印。昼夜を問わず人通りや車の往来が激しいエリアです。
街は大きく様変わりし、本陣や問屋場などの街道遺構は全く残っていません。
当時の内藤新宿の西端は、この追分の辺りとされており、現在の新宿の中心地とはややずれているのがわかります。
日本橋から二里め、追分の一里塚があったとされるのは、このあたりですが、詳細は不明なようです。
<追加> 新宿追分にあるモニュメント。
歩いた時には気づかず通り過ぎましたが、後日新宿に行ったときに発見しました。
<追加終わり>
内藤新宿を抜けた先の、JR新宿駅周辺の人混みのせいで、照りつける日差しをさらに暑く感じました。
小休止してから、次の高井戸宿へ向かいます。
日本橋→内藤新宿
距離 8.7km
所要 2時間15分(休憩除く)