旧日光街道ウォーク⑰ 雀宮宿→宇都宮宿
こんにちは、ばーどです。
2024年3月16日(土)。
雀宮の次が宇都宮。「宮」がかぶるこの区間、その由来は・・・。
1.雀宮と宇都宮
雀宮と宇都宮。「宮」がかぶってるな、という程度の知識でしたが、由来を調べると、諸説ある中でも意外と興味深い説がありました。
雀宮は、日本書紀の記述として、御諸別王(みもろわけのみこ)がこの地を拠点に東国を治めたとき「鎮め(しずめ)の宮」と呼ばれた説。
宇都宮は、奥州攻めの源氏勢が二荒山神社で戦勝祈願し「撃つの宮」ことから来た説。
「鎮め」と「撃つ」では真逆。その区間を、これから歩きます。
まず、雀宮神社の前を走る国道4号を北上。
歩き終わった後で調べると、国道の西側には旧道の痕跡が残っていて、写真の光雲堂ビルとその左側の建物の間(今は駐車場の一部)を走っていたそうです。旧道の痕跡は、この先の国道121号との合流地点まで、500mほど続いていたそうですが、気が付かず通り過ぎてしまい、残念。
昭和18年に、旧中島飛行機(現SUBARU)の宇都宮製作所飛行場が設立。戦時中の戦闘機が造られた場所でした。
戦後、GHQの接収を経て防衛庁に移管。
民家の塀が低いので、この位置にあっても、通行する人や車から見えます。
薬師堂を過ぎ、旧横田村から台新田村に。
台新田とは、「横田村の新田」だったが台地の上にあったことから、そう呼ばれるようになったとか。つまりここから少し上り坂になってます。
2.一里
時刻は17時を回り、市街地に入ったため、道路の渋滞が始まりました。
間もなく、江曽島の一里塚があったとされる地点ですが、並行する鉄道敷設の際に取り壊されてしまったため、その痕跡はありません。
旧街道のシンボルが、新たな移動手段の建設に、敗れてしまいました。
なお、地名は宇都宮市江曽島ですが、交差点名やバス停などに「一里」という名称が残っています。
巨大な榎の木を過ぎ、西原交差点で、日光街道と国道4号は分岐します。
日光街道は国道119号となり、市街地へ直進。
戦闘機から自動車や鉄道へ、さらに宇宙に向けてフィールドを進化させています。
3.不動堂
国道4号と分岐して500mほど進むと、再び分岐。国道119号は直進ですが、旧日光街道は左斜めの不動前通りを進みます。
この石柱は昭和初期に建てられたもので、石柱の正面(南)は江戸ではなく「東京」と書かれています。
また、右(国道119号を直進)が奥州街道・日光街道と書かれているのも、江戸時代の旧道ではなく明治以降に整備された道ということで、国道で宇都宮市心とその先(奥州・日光)を示したものと思われます。
旧街道ウォークを楽しむ私にとっては、頭を悩ます石柱でした。
この辺りが、宇都宮宿の江戸口(南口)。
木戸や土塁、番所が設置されてました。
さきほどの五差路の片隅にあった、くんぺい公園。
そのルーツとなる蒲生君平(がもうくんぺい)の碑がありました。
この地で生まれた江戸時代の儒学者で、尊王派の三奇人(寄は優れたという意味)と呼ばれたそうです。
4.<第十七番>宇都宮宿
宇都宮宿は、奥州・日光街道の分岐でにぎわう宿場町、二荒山神社の門前町、宇都宮藩の城下町、そして鬼怒川の舟運でも栄えた、奥州・日光随一の大都市でした。
宇都宮宿の上野本陣跡は、奥州街道と日光街道の分岐場所にありました。
日没後の到着でしたが、無事宇都宮宿まで辿り着きました。
今日の予定は終了。バスで宇都宮駅へ向かいます。
雀宮宿→宇都宮宿
距離 7.9km
所要 2時間00分(休憩除く)
旧日光街道ウォーク4日目、小山宿から宇都宮宿まで、トータル30.0kmを歩きました。
今回までは、都内から日帰りでしたが、次回は1泊2日で、宇都宮宿から日光鉢石宿、さらに神橋まで予定しています。
雪が残る日光連山、有名な日光杉並木、東照宮の参拝と、楽しみが続きます。
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