旧甲州街道ウォーク㉒ 上花咲宿→下初狩宿→中初狩宿
こんにちは、ばーどです。
2024年9月8日(日)。
本日最後の区間は、夕暮れを追いかけながら、笹子川に沿って進みます。
1.笹子川
写真の三軒屋バス停付近から先、旧街道の古道は国道の左側の山裾に沿って伸びていましたが、中央本線の建設などで失われてしまったようです。
時刻は16時半をまわり、ようやく暑さも和らぎ、山の空気をすがすがしく感じるようになりました。
西日が浮かび上がらせた山影、色づき始めた水田、笹子川の流れ。実に美しい風景に、しばらく見とれてしまいます。
2.採石場
源氏橋を渡った、四つ角。旧道は右折です。
この付近に、丸山の一里塚があったとされていますが、詳細は不明。江戸から二十五里め。
中央本線は右にあり、ほかに鉄道は通っていないはず。
その謎は、後でわかりました。
3.<第二十九番>下初狩宿
初狩の地名は、「富士野の狩り」をこの辺りから始めたことが、由来になっています。
宿場は下初狩宿と中初狩宿が続き、宿場機能を月の半分づつ担う合宿(ごおうしゅく)です。どちらも100軒以上の戸数があったそうで、戸数で言えば大月宿(90軒)よりも大きい宿場です。
「ちょうど100km」を見たくなり、国道を100m戻ってしまいました。
下初狩宿の奥野本陣、17:00。
「赤ひげ診療譚」「樅の木は残った」などを残した作家の山本周五郎は、この屋敷で生まれたそうです。
明治40年の豪雨で笹子川が氾濫。幼い周五郎とその一家は大月に転居して無事だったが、この屋敷にいた祖父母らが被災して死亡。その後一家は東京・王子に引っ越したが、そこでも荒川水害で浸水被害を受けたという。
上花咲宿→下初狩宿
距離 4.0km
所要 55分(休憩除く)
4.<第三十番>中初狩宿
宮川橋からは、山の合間に富士の頂がわずかに見える「宮川橋の一目富士」が旅人を楽しませたそうですが、この日は雲が厚くて無理でした。
松尾芭蕉は、江戸の屋敷が大火で焼け出され、初狩に住む姉の家に半年世話になったとされています。
山本周五郎や松尾芭蕉、初狩宿とは災害で繋がってます。
廃校?と思って調べたところ、2015年に移転したとのことでした。
その移転先が、旧大月第一中学校(2014年に大月東中学校へ統合で廃校)の跡地で、玉突きのような跡地有効利用だったようです。
ちなみに、この先の笹子地区にあった、笹子小学校・笹子中学校は、それぞれ初狩小学校・大月第一中学校(→大月東中学校)へ統合されていて、大月市の学校の統廃合の動きが激しいです。
立川市に本社がある、高圧ガスの会社。山梨地区への営業拡大に、古民家を再利用したようです。
碑の側面に「皇太子御誕生記念」と刻まれていました。侍従長 鈴木貫太郎(その後、戦時中に首相就任)とあることから、皇太子とはのちの昭和天皇のことだと思われます。
この日は、野田尻宿から中初狩宿まで歩き、ここを中断地点として初狩駅まで向かうことにします。
下初狩宿宿→中初狩宿
距離 4.6km
所要 1時間15分(休憩除く)
5.まとめ
この日(9月8日(日))の総トータルは、野田尻宿~中初狩宿 22.7km。
過去3回に比べて、1日の距離としては最も短い距離ですが、意外とアップダウンあり、廃道のような道もありと、歩き甲斐のある1日でした。訪問した宿場も10と最多となります。
次の回では、街道ウォーク初の1000m級の笹子峠を越え、甲府盆地へ進む予定です。
6.番外編
JR中央本線の初狩駅は、下初狩宿近くにあり、来た道を少し戻りますが、
この初狩駅もユニークな駅で、次の上り列車まで時間があるので観察してみたいと思います。
明治41年に信号所として開設、その2年後に駅に昇格。
特徴的なのは、日本でも数少ないスイッチバックの駅であること。スイッチバックとは、急勾配の途中に停まるためジグザグ状に線路を敷く設備です。
初狩駅では、昭和43年に勾配のある本線上にホームを移してからは、旅客列車のスイッチバック運転は見られませんが、当時の設備が残されていました。
特急を見送ってから、現ホームへ移動します。
前方の左方向へカーブする線路(左から2本目と3本目)が本線。
左手前の側方(「70」の左側)に続く線路が、さきほどの旧ホームへの線路。
右前方(信号機の陰になっているが)に向かう線路が、旧ホーム側からバックで進入する引上げ線。その先に採石場への引込線が伸びているらしく、甲州街道第七踏切の手前で見えた謎の線路は、おそらくそれでしょう。
線路や枕木の周囲に敷かれた小石をバラストといいますが、この採石場の石も使われて入れ、当駅から貨物列車で各地に運搬されたそうです。
今回も最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。